読書感想文(385)佐々木閑『大乗仏教』


はじめに

こんにちは、笛の人です。
今回は仏教の本です。
今年は毎月一冊以上仏教の本を読むことを目標にしています。

今回のこの本は、著者の佐々木閑氏の名前を見て買うことを決めました。
というのも、昨年読んだこの著者の本がとてつもなくわかりやすかったからです。

感想

とても良かったです。
読み始めてから気づいたのですが、どうやらこの本は既に読んだ100分de名著シリーズの『大乗仏教』を再構成したもののようです。
ですので、どちらかというと復習メインになりました。
とはいえ、本を一度読んだだけで全て覚えらる秀才ではない(というか記憶力はどちらかと言えば悪い方)ので、とてもいい復習になりました。
今書いているのは読み終えてから結構時間が経っているので、これが三回目の復習とも言えます。

今回メインとなる大乗仏教は、釈迦の仏教と違って「神秘的な不思議な存在」が存在すると仮定して、論理を展開します。これが現代に受け入れられがたい部分ですが、逆にここをぐっとこらえて読み進められれば仏教はとても面白いです。現代でも例えば虚数という存在を仮定して展開する数学があったり、貨幣という虚構の価値を信じることで成り立つ経済があったりします。それと同じだと考えれば、受け容れやすくなるかもしれません。

涅槃というのは、仏道修行によって輪廻を止め、「二度と生まれ変わらない世界に行くこと」を意味するのです。(中略)お釈迦様は「生きることは苦しみである」ととらえたため、輪廻が続くということは、永遠に苦しみが続くことを意味します。だからこそ、二度と生まれ変わらない世界に入ることを最上の安楽と考えたのです。

P20

仏教って、この根本からしてかなりニヒリズムだよなあと思いました。
以前読んだ『武器になる哲学』という本で、哲学を「世界は何であるか」と「どのように生きるべきか」に分けるという考え方を学びました。
仏教に関して、前者については輪廻思想など現代人には受け入れがたいものが多いですが、後者については学ぶところが大いにあります。
これを「思想の根本(世界観)を受け入れられないのだから、そこから派生する生き方なんて考えるに値しない」と切って捨てるのは簡単ですが、そうでない部分が多いように思います。これ、数学的に或いは論理的にはめちゃめちゃアウトな考え方な気がしますが、どうなんでしょう。まあ、とりあえず、自分が納得できているからいいか。
ただ、その分、仏様を有難がっておけばよいというテキトーな考え方にはあまり共感できません。

・アショーカ王の碑文(P29)
これは以前訪れた博物館でも学んだことですが、仏教に帰依したアショーカ王は、自分が仏教徒(在家信者)であることを明言するとともに、あらゆる宗教を庇護するように言ったそうです。そして、バラバラになりかけていた仏教については、破僧の定義を「釈迦の教えについて違う考え方を持っていても、一緒に暮らしていて半月に一回の会議に参加している限りは破僧ではない」と変更しました。仏教界に様々な教えが混在している根本はここにあり、また多様性を受け入れる土台もここにあります。私が仏教を学びたい大きな理由の一つがここにあります。

・大乗仏教ではブッダを目指す(P47)
釈迦の仏教ではブッダは無理だから阿羅漢を目指そうとしますが、大乗仏教ではブッダになることを目標にします。その変遷の思考プロセスが面白かったので、簡単にまとめてみようと思います。
①どうせ目指すならブッダでしょ→②お釈迦様と同じ人生を歩めばなれるはず→③お釈迦様の生涯を見ても、お釈迦様だけが成仏できた特別な理由や方法は見当たらない→④過去世の菩薩時代に何かあったに違いない!→⑤前世で元々は凡夫だったお釈迦様が、別のブッダに会って特別な道に進むことになったんだろう→⑥ブッダに誓いを立て、ブッダから成仏できる保証がもらえたから頑張れたんだ(誓願と授記)(典拠『燃燈仏授記』)→⑦何回も会って何回も励まされてるかも?→⑧お釈迦様は想像を絶する長い時間をかけて(何度も生まれ変わって)成仏した、追体験するのは大変、もうちょい楽な方法無いかなぁ→⑨何回も生まれ変わるならウサギになることもあるはず。ウサギは出家はできないけど、将来成仏できることがわかっている。だから正しい生活を送ることが修行になるはずだ→⑩正しい生活を心がけてさえいれば、それが全て修行になるんだ!
とまあ、こんな感じです。もちろん、各宗派や経典によって考え方は違うのでしょうが、この流れから色々と察することはできそうです。

・般若経の考え方
①あなたも過去にブッダに会っていますよ→②いや、そんな記憶ないですよ→③般若心経を読むと、有り難い気持ちになりませんか?もしそうならブッダにあっています、もしそうならないなら貴方は残念ながらブッダに会っていませんね→④た、確かに有難い感じがする、かも?(ここで有難さを感じないと言うことは、自分が救われないことを意味する)(P62)
完全に怖い人のやり口な気がしますが、他人事としては面白いです。いや、これを他人事と思ってしまうのが慈悲の心が不足している証なのです。私はまだまだダメです。

ニカーヤでは業のエネルギーを輪廻にしか使えないと考えられていたが、般若経では「空」というシステム(因果律に代わる超神秘のパワー)に気づいたことで、ブッダになるためのエネルギーに使えるようになった。
この辺り、ちょっとまとめるのが難しいのですが、イメージとしては、これまで古典力学である程度の説明できていたけど、細かいところまではわからない→量子力学の考え方によって、色んな説明ができるようになった、みたいな流れに近いものを感じます。(P70)

般若経では御経を崇める=御経そのものをブッダと捉える→ブッダというソフトウェア。お釈迦様(人間)や御経はハードウェア。しかもお経は自己増殖プログラム付き→お経を唱えることで何度もブッダに会える!
お経自体にパワーがあると考える(P80)

般若心経は神秘の呪文(ギャーテーギャーテー)、耳なし芳一も般若心経
これは現代人にとって横文字がかっこいいのとかと同じかな?(P90)

・法華経の考え方
お経自体にパワーがあると考えるのは般若経と同じ。
しかし、お経自体が理屈を超えた不思議ですごいものと位置づけた結果、「空」の概念による理屈づけを気にしなくなる。イメージはこんな感じ。
①あれこれ考えなくても、このお経を信奉すれば、それであらゆる問題は解決する。→②思考放棄→③法華経に絶対的な力があるのなら、現世利益にもつながるはずだ!お経を拝めば、健康で豊かな生活ができる!(P119)

法華経は「こうしなさい」という具体的な実践はほとんど言わずに、「法華経は有難いお経である」とばかり言っている。この点は平田篤胤や和辻哲郎も批判している。しかし、「法華経をあがめよ」というメッセージの裏側には、「法華経の神秘性を信じて、自分が菩薩であることを自覚しなさい」という悟りへの思いが込められている。
だから法華経信者は法華経を広めることが菩薩である自分の使命であると考え、布教熱心→ありがた迷惑に感じる人もいる→でも本人たちは嫌がられても迫害されているのが正しい姿だと考える。なぜなら常不軽菩薩がそうだから。(P121)

経典=ブッダという考えは般若経と同じ。ただし、般若経を超える為に久遠実成(ブッダ不死身説)という考え方。般若経を超えたい意識が強い。
→富永仲基の「加上の説」(P125)

努力しているのに誰からも認めてもらえない人にとって、常不軽菩薩は心の支えになる。(P129)

・浄土教の考え方
親鸞の悪人正機説=悪人にも救いを提示する→どちらかと言うと、世の中を良くする為の方便であるような気がする。自分にはどうしようもない世の中で、自暴自棄になる人を減らすための教え?(これは著者ではなく自分の感想)(P149)

極楽往生の為に念仏(法然)→願わずとも阿弥陀様が助けてくれるんやから、感謝の為に念仏(親鸞)(P151)

極楽浄土は菩薩修行を円滑に行える場所→次第にブッダになることではなく、往生すること(楽しい世界で永住すること)が最終目標へ。キリスト教の天国に近い。「悟り」から「救われること」へ(P154)

・華厳経や密教の考え
般若経や法華経は時間軸に着目して過去にブッダと会っているとした。浄土教は空間軸に着目して死後浄土でブッダに会えるとした。華厳経はバーチャルな盧遮那仏が無数に存在しているから、現世でも会えるとした。(インドラの網、合せ鏡、フラクタル、インターネット)
自分を客観視してミクロやマクロな視点で全て繋がっているというアイデア、すごい。一は全、全は一。(P171,177)

華厳経は悟りの方法が書かれていないが、中央集権、鎮護国家思想に合っていたので奈良時代に重用された(東大寺の大仏は盧舎那仏)→平安以降はちゃんと人を救うために広まった(P179)

密教はインド4〜5世紀、ヒンドゥー教の勢力が強まり、衰退していく仏教が生き残る為に呪術的要素を取り入れて生まれた。
密教のゴールは即身成仏(生きたまま仏の境地に至る)→自分がブッダであることを自覚する(如来蔵思想・仏性を持っている)→ブッダとしての活動をする為に加持祈祷とかをする→現世利益の為の行為であって悟りの為の修行ではない(P183)

華厳経や密教はヒンドゥー教の梵我一如に近い→吸収される形で、インドにおいて仏教は消滅→今のインドの仏教は一度消滅した後に周りの国から逆輸入されたもの(P196,198)

仏性思想=自分の中の仏性(ブッダとしての本質)に気づき、正しく生きればブッダになれる(典拠『大乗涅槃経』に「一切衆生」が成仏)→ブッダに会う必要がない(P199,206)

インド仏教の段階では「一切衆生」に植物は含まれない(∵植物は輪廻転生の対象外)→中国に入ってから草木成仏の考え。日本では「天台本覚思想」に見られるように、山や川などの無機物でも成仏できる「草木国土悉皆女王物」の思想へ
「天台本覚思想」は、「本覚」がわれわれの中に存在する「仏となる智慧」のことで、それが既に現象世界に現れている。つまり「煩悩」=「菩提(仏の悟り)」、「生死」=「涅槃」であって、修業は不要であるとする考え方、らしい。よくわからん。(P206)


・禅宗
禅は中国の道教コミュニティ発祥の為、律を持たない→自給自足オーケー(釈迦の仏教では禁止、托鉢のみ)(P223)
ちなみに奈良時代の日本の仏教は鎮護国家思想の為に導入されたので、サンガを維持する為の律は必要がない。ちなみにちなみに律宗は鑑真を招いて開かれたが、鑑真を呼んだ一番の理由は授戒儀式の為→しかし明治時代の廃仏毀釈までは、国家の後見があったので、「僧侶はこうあらねばならない」という縛りはあった。(諸宗寺院法度)(P227,229)

坐禅は自分の中の仏性に気づくこと(主観と客観、自己と世界が分かれる以前の存在そのものに立ち戻る)が目的(P210)

曹洞宗は壁に向かって只管打坐、臨済宗は壁を背にして禅問答(公案)(P211)

禅問答で大切なのは答えが正しいかどうかではなく、その答えがどんな心の動きの中で導き出されたか。自分の心の中を探りながら煩悩を取り払っていく。(P212)
臨済宗の中興の祖・白隠慧鶴、公案の分類・使用法を整備して公案禅を体系化した。(P215)

曹洞宗では、禅は煩悩を消すための修行ではなく、自分がブッダであることを確認する作業(P214)

禅宗が武士に好まれたのは「ストイックな生活をしている彼らは、自分たちがわかっていないことを分かっているんじゃないか?何か立派なことを身につけているのではないか?」と憧れたから(?)
茶会は武士階級の贅沢なお遊び→派手な茶器などを使いそうなものを、なぜ質素に?→そういう豪華に飾り立てたい気持ちをストイックな抑制力で抑えるところに、自己の強さを表現しようという思考(?)→その抑制力の競い合いが侘び寂びとして一般化していった(?)(P218,219)

〈その他〉
・鈴木大拙は日本人優勢の民族意識が強い→岡潔も近いかも。民族の特性は文化的な土壌から生じるものだと自分は思ってるけど、岡潔はそうじゃない感じがする。(P235)

・筆者の考える将来の宗教は「こころ教」(『無葬社会』参照)=一時的な気休めになるだけで人生を丸ごと救う力はない(P237)

・仏教はすべての人を一人残らず幸せにするために存在している。誰かを幸せにするために他の誰かを不幸にしてしまうものは仏教徒は呼べない。→戦争や死刑制度、原発問題に対して仏教は解法を持っていないので、仏教者としての立場でこの問題について語るべきではない(筆者の考え)(P241)

・心地よいキャッチフレーズを考える暇があったら、生きることに苦しんでいる人たちに本気で向かい合い、一人でも多くの命を守ることを考えろ(筆者の考え)(P243)

おわりに

ほとんどまとめるだけでかなり長くなりました。疲れました。
まとめながら、身近でありながら禅宗と浄土系に対する理解が特に浅いなあと感じたので、次はその辺りについて学んでみようかなと思います。

ということで、最後まで読んでくださってありがとうございました。


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