読書感想文(127)三浦しをん『愛なき世界(上)』

はじめに

こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。


シロイヌナズナの研究をしている大学院生に恋をする料理人(見習い)のお話なのですが、最近大学でシロイヌナズナの研究をしていた人とお話する機会があり、その人に教えてもらったのをきっかけに読んでみました。

三浦しをんさんの作品は、先日読んだ『きみはポラリス』と合わせて2作品目です。自分の感性に通ずる所がありながら、まだ自分の中に染み込んでいないものがあると感じています。
そのふわふわなものをまだ捉えきれていませんが、他の作品も読んでみたいなと思っています。

と、終わりのような書き方になりましたが、ここからが本番です笑。

感想

さて、まだ頭の中がまとまっていないので、何から書いていこうかなぁというところですが、いつも通り引用しながら書き始めてみようと思います。

スマホやテレビや飛行機の仕組みも、もちろん藤丸はよく知らない。知らないまま、「便利だなぁ」と使っており、しかしまあ機械の仕組みなんて難しいものだろうから、素人が知らなくてもしょうがない、と半ば開き直っていた。ところが、同じ生き物であり、非常に身近な存在であるところの植物の葉っぱについてすら、俺はなんにも知らないのだ! 藤丸は衝撃と感動を覚えた。「自分はどれだけボーッとしてるんだろう」という衝撃と、「それにしても、葉っぱの仕組みに興味を抱くひとがいるなんて……。ふつうは、『あ、葉っぱ』としか思わないよなぁ」という感動である。

P52

私は逆にIT関係の勉強を少しした時、自分の無知さを感じました。
そして無知を自覚して知ろうと思うと、物事の見え方が変わります。例えば近年一番気になっているのが画家や写真家の世界の見え方です。作品になる前の現実世界を見て、「あ、これは絵になるな」と思える人にはどんな風に世界が見えているのか、気になります。
本を読むと大抵いつもその本の何かしらが日常生活に影響を与えてくれます。いつもとほんの少し違う世界が見えるので、新しい発見があって楽しいです。
私が読書を好むのは、これが結構大きいかもしれません。
引用部分の最後に書かれる「感動」は、とても共感します。こんな事に興味を持つ人がいるんだ!という発見は、すなわち自分にとって新しい視点が見つかるということです。作中でも藤丸くんが新鮮な視点を楽しんでいるのがよくわかります。
しかし、そういった少し変わったことを話す機会というのは、日常生活ではそれほど多くありません。特に大人数でいる時は、皆が適度に楽しめるような無難な話題になりがちです。それはそれで楽しいのですが、私は一対一でじっくりとその人らしい話を聴くのが好きです。

最初からこんなに書いて大丈夫かなぁと不安ですが、とりあえず気にせずに気が済むまで書くことにします。

本村さんたちが研究してるのは、つまり生き物がどうして生まれ、どうやって生き、なぜ死ぬのかってことについてなのかもしれない。俺も含めて多くのひとが、一度は抱いたことのある疑問。でも、俺も含めて多くのひとが、「そんなこと考えたってしょうがないや」と投げだしてしまった疑問。本村さんたちは投げだすことなく、しつこくしつこく考えつづけてるんだ。

P75

生物学の魅力が端的に書かれていて、いいなと思いました。
そして「そんなこと考えたってしょうがないや」と多くのひとが投げ出してしまう疑問というのは、生物学の他にも無数にあるはずです。
それらの疑問はすぐには答えが出ないから諦めてしまうのですが、心に留めておけばふとした時に納得できる答えが見つかったりするものでもあるかなぁと思います。
一つ怖いなと思うのは、「考えたってしょうがない」が当たり前になってしまうことです。最近は特に世の中が「役に立つ実用的なスキルを!」みたいな風潮になっている気がするので、素朴な疑問と探究心を失わないように心がけたいです。

「植物には、脳も神経もありません。つまり、思考も感情もない。人間が言うところの、『愛』という概念がないのです。それでも旺盛に繁殖し、多様な形態を持ち、環境に適応して、地球のあちこちで生きている。不思議だと思いませんか?」
(中略)
「だから私は、植物を選びました。愛のない世界を生きる植物の研究に、すべてを捧げると決めています。だれともつきあうことはできないし、しないのです」

P120,121

この作品のタイトルにもなっている「愛なき世界」に関する部分です。
 生物はすべからく種の保存を目指しているのだと思っているのですが、植物はそこに愛を必要としません。逆に人はいつから愛を用いているのか、動物はいつから愛を用いているのか。
恋愛について考える時、肉欲を含めて考えることは多かったのですが、逆に肉欲どころか感情がない植物について考えたことは多分今までありませんでした。
恋愛は大人になるにつれて生殖活動や種の保存とセットで考えられることが多くなるように思いますが、子どもはそこまで考えていないことも多いですし、プラトニックラブという言葉もあります。
また、セクシャルマイノリティの話とも繋がるところがあると思います。

この点についてはまだあまり整理できていないのですが、本能が生み出した種の保存の為の恋愛と、それらの過程で生まれた文化としての恋愛がある、と考えればわかりやすくなるのかなぁとぼんやりと思いました。

そういえば『きみはポラリス』でも「普通」でない恋愛が取り上げられていたので、もしかすると作者にとって興味深いテーマなのかもしれません。

また、後半の「だから私は植物を選びました」という部分については、なんとなくですがわかります。
何かについて本当に知りたいと思う時、その物と同化することが大切だ、と考えたことが私もありました。私の場合は文学であり、和歌でした。
愛なき世界に生きる植物の研究をするには、愛なき世界に身を置かねばならない、というのは自然な発想だと思います。
そういえば、松田先生の私生活が謎に包まれているのは、愛なき世界に生きる者の象徴なのかなとも思いました。しかし上巻の後半、松田先生にも何やら事情がありそうな気配が漂っていました。あくまでも私達は人間であるということなのでしょうか。そんな単純なことではないような気もします。

「(これからの時代はよりいっそう)広い視野が要求されます。研究に没頭するだけでなく、どういう研究をなぜ行っているのか、それによってなにがわかり、まだわかっていないことはなんなのか、研究者ではないひとたちにも、わかりやすくお伝えしなければならない。そうでないと研究費が下りないという現実もありますが、なによりも、『すぐに結果が出て、ひとの役に立つ研究以外は、すべて無駄であり無意味である』という悪しき成果主義、功利主義が、世の中を覆いつくしてしまうからです」

P201

とても共感します。まるで文学部の話みたいだなぁと思いました笑。
以前一度だけ理系の友人にオンライン開催の学会を見せてもらったことがあるのですが、どの発表も目的が明確で驚きました。こういうことができるようになるのを目指して、こういう研究をしました、という形です。
対して文学研究は「従来はこういう解釈だった(或いは、知られていなかった)が、実はこうだった!」という形が多い気がします。これは未知の解明ということで、生物学はこちらに近いのかなと思います。
違うのは対象が生物であるか人の営みかという点です。ただしこれらは相互にヒントを与えるものなのだろうなと直感的に思います。「人」は「生物」に含まれるので、人の営みは生物の営みです。
「悪しき成果主義、功利主義」というのは恐らくかなり昔から言われているので、もしかすると手遅れなのかもしれません。お金と幸せが密接にむすびついている価値観の社会を根本から見直してシステムを変える必要があると思います(どうすればよいのかわかりませんが……)。
ただ、今「役に立たない」と切り捨てられるものって、世の中で当たり前になってしまって有難みを感じられていないのかなと思います。
文学は役に立たないなんて言いますけれど、気づいていないだけで日常生活の至るところに影響がありますし。
現在の文学研究が役に立っているのかどうかは正直わかりませんが。

ふつう、イチョウの葉は扇を広げたような形をしているものだが、その葉はちがった。ラッパのように丸まっているのだ。継ぎ目もなく、完全な円錐形だ。黄金色なこともあいまって、「これは小人が落とした小さなラッパで、そっと息を吹きこんだら、本当に音が鳴るんじゃないかしら」などと空想が広がる。

P238

これは散歩をしている時の思考なのですが、これぞ散歩の効能だ!と思いました。
円錐形のイチョウを見て小人のラッパを思う発想、素敵な感性だなと思います。
こういう自由な発想をするための余裕って大切だなぁと近年よく思うようになりました。「役に立つ実用的な学びを!」といって詰め込んでいると、こういう発想力を失ってしまいます。実用的なことが好きな人には、AIの台頭を踏まえて話せば、発想力が大切だということを理解してもらいやすい気がします。

また、この後に藤丸くんが似たような発想をするところも、いいなと思いました。
そういう時に同じことを思えるのって嬉しいですよね。

ちなみに、イチョウで素敵な発想といえば与謝野晶子の「金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に」という歌が思い出されます。こちらも素敵ですよね。

いったい、松田先生の目と脳はどうなっているんだろう。植物のためだけに存在するみたいに、鋭く反応する目となめらかに回転する脳だ。本村もそうありたいと願っているが、当然ながら、松田の境地には到底追いつけない。

P241

これは大学で真面目に勉強した人は思ったことがあるのではないでしょうか。研究者ってすごすぎるんですよね。それに比べると自分はどれほど無能なのだろうと悲しくなります。
でもある日ふと、研究者がすごいのは当たり前か、と思いました。というのも、教授っていうのはまあ仮に50歳だとしても30年近く同じ分野を勉強し続けているわけです。しかも熱意を持って、そればかりやっているのです。一方自分は、言語を習得する前から数えても20年ちょっとしか生きていません。そりゃ叶うわけないでしょう。
ということで、一旦尺度を自分の中に限定してみると、その成長の凄まじさに驚きます。例えば高校3年生の頃、センター試験がある程度解けるようになっています。ではその5年前は何をしていたかというと、中学1年生です。つまり、小学生にちょっと毛が生えたレベルだったわけです。それがたったの5年でそこまで成長したなんて、すごいと思いませんか。
大学で考えてもわかりやすいです。別の学部に行った高校のクラスメイトと話してみると、やはりその学部の色が出てきます。高校の頃は全く同じ授業を受けて似たような学力だったのに、大学四年間でここまで知識に差が出るのかと驚きます。勿論文学部の私にとっての常識をクラスメイトが知らないということもたくさんあります。

こんな風に考えてみると、自分は10年後に一体どれほど成長しているのだろう、とわくわくしてきます。
これは私にとって読書のモチベーションでもあります。
仮に1年で100冊の本を読んだとすると、10年後には1000冊読んだことになります。読まなかった場合と比べて1000冊の差があるわけです。
イメージしやすいように具体的に考えると、文学の本を200冊、生物学の本を200冊、経済学の本を200冊、心理学の本を200冊、社会学の本を200冊読むか読まないかの差が出るということです。
こんなふうに考えると、逆に全く読まなかった場合が恐ろしいとさえ思ってしまいます。勿論人生における学びの場は読書だけではないのですが、仮に年間100冊分の読書の学びがあるかないかで、10年後にこれだけの差が出るのです。
そう考えると、10年後の自分は思っていたよりもすごい人になっているかもしれない、とも思えてきます。

ちょっと話が脱線し過ぎました。一度作品に戻ります。
本村さんは先生の凄さと比べて、自分の研究者としての資質に不安を覚えます。
私は研究の道から逃げてしまったので偉そうな事は言えないのですが、読んでいる限り本村さんはやっぱり研究者らしいなと思いました。というのも、本村さんは気づいていないようですが、自分だって松田先生と同じことをやっていたからです。何ページだったか忘れていましたが、シロイヌナズナの細胞を顕微鏡で覗きながら、何か変わった事があれば自然とそこにピントが合う、といった話が書かれていました。
本村さんは確か現在博士課程1年目だったはずなので、まだシロイヌナズナの研究を始めてから3年目のはずです。それでそこまで身体が適応しているのだから、松田先生と同じ年齢になる頃には、やはり植物の為に存在する目と脳になるのではないかなと思います。
ちなみに何かの為の脳になる、というのは学問以外でも当てはまる部分があると思います。私は何かを学ぶ時にその対象の為の脳になることを意識しますが、何か一つ大きな芯があるわけではないので、そこが少し弱みだなと感じています。ただ逆にいえば前提に囚われにくく、自由な発想ができる強みでもあると感じています。

おわりに

結構長くなってしまっているのでこの辺りで終わっておこうかなーと思います。
細かいところでは、藤丸くんの人柄がいいなぁとか(「むじゃきなおひとよし」と表現されています)、研究に向ける情熱に対する憧憬とか、シロイヌナズナについてもう少し詳しく知りたいなぁとか、色々と思いました。
これだけ色々と出てくるのに、まだあと半分あるので続きが楽しみです。

ということで、最後まで読んでくださってありがとうございました。


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