読書感想文(259)恩田陸『黒と茶の幻想(下)』

はじめに

こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。
今回は前回読んだ『黒と茶の幻想』の下巻です。

↓前回(上巻)の感想文

感想

面白かったです。
しかし、やっぱりよくわからないといえばわかりません笑。
『黒と茶の幻想』は全部で四部構成、それぞれが登場人物四人それぞれの視点で描かれます。
上巻を読んでいる時、恐らく最後が節子になるんじゃないか、と思いました。
というのも、節子は登場人物の中で一番普通というか、何でもないような人物に見えつつ、実はとても周りがよく見えていると思ったからです。無邪気そうに見えて、それは外側だけというか……。
実際読んでみると、やはり節子が最後だったのですが、結局どういう意味があるのかわからずに読み終えました。
すると、巻末解説で、節子以外の三人は「あっち側」に行けるけど、節子は徹底的に「こっち側」という話がありました。腑に落ちたというほど理解できていませんが、なるほどなぁとは思いました。
解説については、「世代」の小説とされており、もしそうなら自分が理解できないのも無理ないなぁと思いました笑
ただ、登場人物達を「わかった気分になってきた連中」と表現するのはしっくり来ました。
これは特に節子の章で、色々と分析している割に的外れなこともあるなぁ、と思ったからです。それぞれの人物が自分や他人を分析して納得していますが、別の人物の視点からは全然違っていたりします。
さらに、これを世代の小説とすると、ちょうど親世代の小説ということになり、分析してわかった気になっているのは親世代のイメージと確かに重なります。
これは単に子供の頃に大人の勝手さに不満を持つという、世代を越えた共通認識かもしれません。でも、最近の子育ては結構子供の意見を尊重するべきみたいな風潮になっている気がします。少なとも、それが良いとされているような気がします。

「先生がね、こう言ったの。『夜はね、私たちに夢を見ることと世界を恐れることを教えてくれるから、とっても役に立つのよ』」
(中略)
確かに美しい答だ。俺はかすかに心の中で笑った。
だが、先生は教えてくれない。夜は、俺たちに幻滅することと後悔することも教えてくれるということを。

P33

けれども、夜が夢を見ることと世界を恐れることを教えてくれることに変わりはありません。
自分や他人を分析する人ってシニカルな調子になりがちで、しかもちょっと斜めの意見を持つ自分に満足しがちな気がします。
こういうところを見ても、なんとなく登場人物達が未熟な感じがして、慈しむような気持ちが起こります。
そして、これはそのまま自分にも跳ね返ってくることでもあります。私もまだまだ未熟です。

こうして、列の最後尾を歩いていくのはなんと心が落ち着くのだろう。俺にはこのポジションがあっている。みんなの背中を見て、最後についていくこの位置が。彰彦のように先頭に立ってみんなを率いていく人間ではないのだ。

P55

私もなぜか一番後ろを歩くのがしっくりきます。全体を把握していたいのか、単に前を歩くキャラじゃないと自認しているのか、わかりませんが……。
ただ、赤の他人が自分の前を歩いているのは不快なんですよね。こういうところに自分の傲慢さ(?)のようなものが表れている気がします。

本当に愛があるかどうか気にしてる人間はそうそういないよ。いかに愛がお互いの間に存在するかのように思い込み、周りにもそう信じさせられるかどうかが問題なんだから。

P231

これはちょっと歳の差を感じました。
でもこれも、「大人」の悟りなのかもしれません。無邪気に愛を信じられなくなるのはなぜなのでしょうか?
ただ、『源氏物語』の紫上を思い出しました。

ティーンエイジャーの頃には遥か遠くで輝いていて、いつか到達できる言葉だと思っていたはずなのに、今では、ずっと探していたのにどこかで通り過ぎてしまった道路標識のような感じだ。結局、なくても目的地には着けた。

P237

これは「愛」という言葉についてです。
私はまだ通り過ぎていませんが、確かにわからないまま目的地に到達していそうな気はします。
でも、ティーンエイジャーと四十路手前の間にあるなら、まさに今の自分くらいの年齢で通るものなのではないか?と思いました。はさみうちの原理で、考えられるでしょうか?

みんなで少女が持つカメラを業種する。
ふと、森の中に続く道を見たような気がした。
静寂の森。どこまでも続く細い道。
あたしたちは、誰もが森を持っている。
Y島の森よりも広く、太古の原生林よりも巨大な見えない森を。
あたしたちは森の中を歩く。地図のない森を、どこへ続くか分からない暗く果てしない森の中の道を。
あたしはこの森を愛そう。木々を揺らす風や遠い雷鳴に心を騒がせながらも、一人どこまでもその森を歩いていこう。いつかその道の先で、懐かしい誰かに会えるかもしれないから。
あたしたちはそれぞれの森を歩く。誰かの森に思いをはせながら、決して重なりあうことのない幾つもの森を、ついに光が消え木の葉が見えなくなるその日まで。

P365,366

この終わり方、とてもいいなと思いました。
人はそれぞれの心の中に深い森を持っている。
これだけだと陳腐な感じもしますが、Y島の雄大で神秘的な大自然を感じた後でこの表現が用いられることで、その意味がより深く感じられます。言葉は文脈によって意味が変化するということがつくづく感じられます。

そういえば、今回バレバレながら固有名詞がイニシャルで隠されていたのはなぜなのでしょうか?
フィクションを感じさせるためでしょうか?
些細なことながら、結構気になりました。

おわりに

読み終えた今、この作品が一連のシリーズとどう関わってくるのか、気になります。ストーリーとしてはそれほど強く繋がっていませんが、随所の表現からも確かに繋がっていることを感じます。まだ読んでいない作品を読むのも、もう読んだ作品を改めて読み返すのも、楽しみです。

ということで、最後まで読んでくださってありがとうございました。


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