読書感想文(117)フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(野崎孝訳)

はじめに

こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。

今回読んだのは米文学の中ではかなり有名な作品だと思います。
結構前から積んでいたのですが、先日読んだ村上春樹『ノルウェイの森』に出てきたので読むことにしました。

感想

正直に言うと、あまり楽しめませんでした。
文章が難しいのか、内容が上手く頭に入ってこず、読むモチベーションが下がり、余計に内容が上手く入ってこないという悪循環でした。
かなり有名な作品なので恐らく良い作品なのだろうと思うのですが、あまり味わうことができなかったのでまたいつか読み直したいです。
比較的易しい訳で書かれることが多いらしい光文社古典新訳文庫で読んでもいいかもしれません。

以下、少しだけネタバレを含みます。

 彼はかたときもデイズィから眼をはなさなかった。いろいろ美しいものを見つけた彼女の眼に浮ぶ反応の程度によって、自分の家のあらゆるものを再評価していたのであろう。

P149

他人の評価が価値基準になる例が明確に示されています。
「良い」とは何かという問いを立てて、自分が満足していればそれで良いのだという話はよく聞きます。
さらにもう一歩進むと、自分が満足する為に他人を価値基準にするということも考え得ることがわかります。
ただし他人を価値基準にする場合において、見栄や恋など様々な要因があるように思われます。

この点、私はギャツビーと似た考え方を持っているはずなのですが、どうも彼には感情移入しづらく感じました。
理由ははっきりとはわからないのですが、特に気になったのは少し妄想的なところがある点です。
逆に、次のような場面では考え方が異なっており、かつギャツビーの思い込みの強さが垣間見られます。

「ぼくなら無理な要求はしないけどな」思いきってぼくはそう言った「過去はくりかえせないよ」
「もちろん、くりかえせますよ!」

P180,181

この点について、私は「くりかえせることもあればくりかえせないこともある」というズルい立場を取ります。
「くりかえせる」というのを「くりかえし得る」と捉え、できるだけそうなるように努める、という点ではギャツビーに同意します。
しかし他人が同じように思うとは限らず、それによって自分の想定通りにならないことはよくあるように思います。

また「過去」という概念は私の中で結構大きなもので、色々な考えがあります。
パッと思いつくものでは平野啓一郎『マチネの終わりに』に書かれる「過去は変わるし、変わってしまうとも言える」(要約)という考え方があります。
今回は現在において、過去と同じようにすることができるという話でした。これが可能かどうかを考える時、過去と現在を対比して最も大きな要因となる変化を考えてみると、私は人ではないかと思います。人は年月を経る毎に経験を増やします。人間関係も変われば、世論や常識も変わります。個人の性格なども踏まえてその影響は様々なので、必ず過去と異なるようになるとは言えません。しかし異なる可能性は大いにあると思います。

ただし、ギャツビーのように過去をくりかえせるという点に着目することも、場合によっては有効だと思います。
例えば私自身は、自分が一番楽しかった頃や一番自身のことを好きだった頃をセーブポイントのような形で捉え、何か困った時には一旦そこまで状況を戻して考え直す、という事をしばしばやっています。
その方法も様々で、間の期間を丸々無かったことにする場合もあれば、現在の自分の生活の一部に過去を組み込む場合や原則的な部分を重ねる場合もあります。
体系化しているわけではないので説明が難しいです。そろそろ読者を置いてけぼりにしている気がするので、この辺りでやめておきます。
この話も、いつかnoteに整理してまとめられたらいいなぁと思いました。

おわりに

思っていたよりは書けましたが、やはり内容に関しては全然触れられていませんね……。
まあ世の中には有名でも自分に合わない本があるということであり、或いは自分はまだまだ成長の余地があるということでもあります。

noteの投稿がしばらく空いてしまったのは、この本がなかなか読み終わらなかったからです。
明日からまたどんどん読んでいきたいと思います。

ということで、最後まで読んでくださってありがとうございました。


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