読書感想文(100)岡潔著、森田真生編『数学する人生』

はじめに

こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。

遂に読書感想文が100本目です。
記念すべき100本目に選ばれたのは『数学する人生』です。
選んだ理由は数学に触れたかったからです。結局、数学ではなくバリバリ文系の内容でしたが、日本最大の数学者がこれほど日本文化・文学を重要視していることに驚きました。

今回は書きたいことが多すぎて、どこを取り上げようか迷っています。

感想

岡潔は日本最大の数学者であり、多変数解析函数論の分野で、世界の数学者を挫折させた「3つの大問題」を全て一人で解決したそうです。「3つの大問題」については全く知りませんが、とにかくすごい人だということはよくわかります。

私が岡潔を初めて知ったのは、高校の頃に数学の先生が少しだけ話していた時です。
世間を気にせず数学に打ち込み、仏教からインスピレーションを受けて偉大な発見をした天才だという話でした。
そして、この本を読んでから気づいたことですが、その先生は恐らく「わかるまで考えなさい」という事が言いたかったのだと思います。岡潔は次のように書いています。

 繰り返していうと、数学の本質は、主体である法が、客体である法に関心を集め続けてやめないということである。このことは当然「算数」のはじめからそうなのである。だから算数教育は、まだわからない問題の答、という一点に精神を凝集して、その答がわかるまでやめないようになることを理想として教えればよいのである。

高校時代はわからなくて困っているのに「わかるまで考えろ」と言われても……と思ったものですが、まさにここで言っている事でした。先生が影響を受けた思想を発見してしまいました笑。
この本の中で岡潔は、一つのことに「関心を集め続ける」という表現をします。
受験数学の勉強法としては、問題パターンと解法をある程度暗記してしまうと効率が良い、とよく言われます。確かに効率は良いのですが、「どうすればこの問題を解けるか」と考え続けるのに数学はうってつけであり、試行錯誤して答えに辿り着いた時の感動は一際大きかったです。
受験から解放された今こそ、自由に気が済むまで数学ができるのではないかと思うと、これから数学を学ぶのが一層楽しみになりました。
あ、ちなみに私は近いうちに数学を勉強し直そうと思っています。まずは高校数学から、その後大学で習う数学もやりたいです。数学の論文も読んでみたいのですが、どこまで勉強すれば理解できるようになるのか私にはまだわかりません。

この本では「情緒」というキーワードがあります。これは一般的な意味とは異なる、岡潔が定義した言葉です。定義といっても定義できておらず、それを認めた上でなんとか説明しようとしています。
少しズレるのですが、自分の中にある問題と向き合って考えを突き詰めていくと、言葉を自分で定義して論を進めていかなければならなくなる、というのは私にもよくわかります。私は例えば「かわいい」という言葉の使用例を厳密に限定しています。
本を読むと知識が増える一方、自分で考える為の余白も必要だなと最近よく思います。未熟でもそうでなくとも、自分の中でとことん考えると、このように言葉を自分の中で定義してしまうものなのかなぁと思いました。

この本を読み終えて真っ先に気になったのは松尾芭蕉と芥川龍之介です。
私は俳句(俳諧)に全く詳しくないので、松尾芭蕉のこともその句もほとんどわかりません。でも偉大な数学者がここまで絶賛するのだから、何かあるのだろうと思っています。
折しも、仕事で松尾芭蕉に関わることがあったので、これを機に勉強しようと思っています。今の所、コレクション日本歌人選シリーズの本が積読になっているので、これから読み始めます。
また、芥川龍之介は松尾芭蕉について理解が深く、いくつか文章を書いているようです。何度と引用されていた芥川龍之介の「ギリシャは東洋の永遠の敵である。しかしまたしても心がひかれる。」という言葉は印象に残っています。これを理解するためにも、ラテン文化としての数学を学びたいと思います。
芥川龍之介の作品はあまり読んでおらず、「羅生門」「河童」くらいしか覚えていないので、こちらもまた読みたいです。

 xがどういうものかわかってやるのではありません。わかっていたらなにも捜し求めることはない。わからないから捜し求める。関心を集め続けるのです。
 わからないものに関心を集めているときには既に、情的にはわかっているのです。発見というのは、その情的にわかっているものが知的にわかるということです。

先ほど挙げた「関心を集める」ということも書かれています。
ここで自分の経験と照らし合わせると、自分の心の中ではわかっているけれど、上手く言語化して説明できない状態に近いのかなと思いました。
そういう場合、自分でひたすら考え続けることでそれなりの(知的な)理解に至ることもありましたが、読んだ本の中で誰かが既に言語化してくれていることもよくありました。本を読んで考えを整理できた時は、改めて自分と筆者の主張や背景を確認し、細かい所に目を向けるとより深く理解できます。「こういう所は重なるけど、ここはちょっと違うなぁ」という思考は、現実での人間関係でも結構たくさんあるような気がします。

  春は花夏ほととぎす秋は月
  冬雪さえてすずしかりけり

 花を見ているときは花になって花を見、ほととぎすを聞くときにはほととぎすになってほととぎすを聞き、月を見るときは月になって月を見、雪を見るときは雪になって雪を見る。これが、人と大自然との一番普通のつながりで、人はこういうことができるのです。(中略)
 自分というものは、時と場合によってあるにはあるが、時と場合とによって位置を変える。固定されていない。このことを仏教では「諸法無我」といいます。

この「諸法無我」は、まだ理解が足りていないとは思いますが、最近感じていたもやもやを少し晴らしてくれました。
最近よく会っていた人達は、「より良い人生にする為に自分が本当にしたいのは何なのか」という事をよく考えていました。目的は行動の源泉なので、この考えはとても良いと思っています。
しかしここで「自分」というものを考える時、多くの人が、いや全員が「自分」について考えていました。則ち、肉体を持った個人としての「自分」を前提にしていました。
ここで「諸法無我」というものを考えると、肉体を持った個人としての「自分」に限定して考えるのは少し視野が狭いように思われます(勿論、ダメというわけではありません)。私は自分の幸福を考える時に必ず他人の幸福が絡んでしまうので、「自分」にとっての本当の幸福について考えるのが苦手でしたが、諸法無我という考え方を知って、ああ別にこれで良かったのだなと思いました。
岡潔は、個人とは宇宙という大木の一枚の葉のようなものだ、とも言っています。葉というのは大木の一部ではあるけれども、全てではありません。全てではないけれども、葉だけではありません。

また、自分が固定されない例として、もう一つ紹介されていた道元禅師の歌もいいなと思いました。ちなみに先程の「春は花〜」の歌も道元禅師の歌です。

聞くままにまた心なき身にしあらば己なりけり軒の玉水

この歌を書きながら、そういえば和泉式部の歌にもこんな有名な歌があったなと思い出しました。

  もの思へば澤の蛍も我が身より
  あくがれ出づる魂かとぞ見る

この歌を書きながら、そういえばそもそも『古今和歌集』「仮名序」で次のように書かれていることを思い出しました。

 やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを見るもの聞くものにつけて言ひ出せるなり。

これは少し違うかもしれませんね。ただ、「心」を個人の感情ではなく、岡潔の言うところの「情緒」と解せば、通ずる所はあるかもしれません。個人の感情(或いは、そう古人が思っていた、本来は情緒であるもの)を宇宙と共感するうちに、次第に和歌の世界も諸法無我の境地に近づいていったのかもしれません。
ここまで、ただの思いつきで書いていますので、学術的な整合性に関してはご勘弁ください笑。

ちなみに、道元禅師の「聞くままに〜」の歌は、第三句「身にしあらば」は文法的に「身にしあれば」が正しいと思うのですが、この本には「あらば」と書かれていました。
この原因は岡潔が間違えたのか、編者の森本さんが間違えたのか、道元禅師の歌が元々そうだったのか、写本の関係の問題なのか、結局何なのかはわかりませんが、気になったので書き残しておきます。

だいぶ長くなってきたので、最後に二つ、印象に残った所を引用して終わります。

私は私の部屋で深夜ひとり、この第一着手の発見という問題をじっと見て、この問題は私にも解けないかもしれないが、もし私に解けないならばフランス人にも解けるはずがない。それにこの問題は十中八、九解けないだろうが、一、ニ解けないとはいいきれない節がある。せっかくの一生だからそれでなければおもしろくない。よしやってやろうと思った。(p81)

めっちゃかっこいいなと思いました。実際、解いちゃってるんですよね。
ちなみにフランス人にも解けないというのは勿論差別的な意味ではなく、フランスに留学していた事と、日本文化の中の自分という意識を岡潔が持っていた事が関係していると思います。
一生かけて解けないかもしれないと言いつつ、その問題に取り組んで見事解決した岡潔ですが、次のような言葉も残しています。

「何かやりたいこと、成し遂げたいことがあったら、一生それを思い続けなさい。それでダメだったら、ニ生目も、三生目も思い続けなさい。そうすれば、やがて必ず実ります」(p296)

「関心を集め続ける」という話はこのnoteの中でも書きましたが、その覚悟たるや一生よりも大きいのです。
私は自分自身が岡潔のような偉大な人間になる想像ができません。しかし、偉大な人に対して常に憧れはあります。そしてこの憧れが自分を引き上げてくれると思っています。
岡潔も数学に興味を持ち始めたのは、学校を休んだ時に偶然家の本で読んだクリフォードの定理に出会ったからだそうです。もしかすると、その出会いがなければ岡潔はこれほど有名になっていなかったかもしれません。
比べるのがおこがましいのは重々承知していますが、自分にもそのような偶然の出会いが無いとも限りませんし、あると思っていないと見落としてしまうかもしれません。
そういう点で、僭越ながら天才数学者に自己を投影し、成長の糧にしたいと思います。

おわりに

思ったより長くなってしまいましたが、100本目記念なのでまあいいか、と思っておきます。
想定していた以上に読んで良かったです。また読み返したいですし、数学の勉強もしたいです(松尾芭蕉と芥川龍之介も)。
この本を読んで、自分にも何か芯となるものが欲しいなーと思いました。結構前から思っているので今更ですが……。

ちなみにこの本は今年141冊目となります。あと9冊で150冊に到達するので、頑張って読みたいです。

ということで、最後までに読んでくださった方、ありがとうございました。

この記事が参加している募集

#読書感想文

189,937件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?