読書感想文(205)砥上裕將『線は、僕を描く』
はじめに
こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。
今回はまた映画化されている作品です。
水墨画はこれまでほとんど触れたことがなかったのですが、最近は禅宗に興味があることもあり、読んでみることにしました。
感想
とても良かったです。
絵の小説だから綺麗なのですが、なんていうか、心が透けるような静かな綺麗さがあります。潔さ、とでもいいましょうか。文章そのものが無駄なく美しいということではなく、内容が綺麗で、つまり水墨画の魅力がよく伝わってきたということかなと思います。
印象的だったのが、五感の表現がたくさんあったことです。視覚、嗅覚、聴覚が多かったように思います。
特に嗅覚は水墨画における墨の匂いは、静かな場面に合っていました。
あとは、水墨画界の深刻な問題提起として、専門性が薄れてただの趣味の習い事になってしまっていっていることが書かれていました。
しかし、こういうところから心の教育をするのも大切なのかなと思いました。
その他色々とありますが、安易な言葉でまとめられないような気がするので、いつも通り引用しながら考えていこうと思います。
「何もならない」と「何もなれない」という一文字の違いは意思があるかないかの違いです。
普段、意識していなくてもこういう使い分けをしていたり、或いは言葉の方に現実が引き寄せられることもあると思います。
この他、随所で似たような話が出てきます。これは「諸法無我」と考えてよいと思いますが、そういえば水墨画って禅宗と一緒に日本に来たんだよなぁということを思い出しました。
しかし、中国の方では必ずしも一体化していなかったという話を聞いたことがあるので、向こうの水墨画がどのようなものなのか気になりました。
これは結構前に、自分が色々な事に対して素人であることを肯定する上で、考えたことがあります。
初心者こそ、先入観がない分、芸術において大きなアドバンテージとなることもあります。
しかし最近は、例えば学校のテストや運動会、それに加えて個人主義や効率主義といったものによって、最短距離を求める傾向が強いように感じます。
勿論、目的にもよるのですが、もっと今の状況や寄り道を楽しんだ方が良い気がするのですが、どうでしょうか。
「気韻生動を尊ぶ」という言葉は覚えておきたいと思いました。
これもすごく大切なことだと思いました。
最近は岡本太郎の本を読んで似たようなことを思いましたが、最近はSNSなどで絵を描いている人をよく見かけます。
商品化するわけでもなく、好きな絵を描いている人が世の中にたくさんいるのだと思うと、意外と日本大丈夫かもしれないな、なんて安心したりしました。
水墨画における、四つの基本「四君子」のことも覚えておきたいと思いました。
これは君子に限らず、人のあるべき姿として覚えておきたいです。
これは言われてみると、なるほどと思います。
最近ではTwitterなどで、早送りの絵のメイキング動画などを時々見かけますが、何も無かったところから完成に近づいていく様はとても不思議な感覚になります。
それが目の前で、瞬時に行われていくのが水墨画なのだろうと思います。
今後、水墨画を見に行く機会があれば、そこも想像してみようと思います。
この視点は絵描きならではだなと思いました。
私は今年、植物園にネモフィラを見に行ったことがあります。
その時、ただきれいな青を眺めるだけではなく、花を色々と観察をしました。
すると、花びらの形や枚数が違ったり、淡い青や紫に近い青だけでなくピンク色も混じっていたり、色んな発見がありました。
しかし、それを描くところまでは考えなかったので、その程度の観察で終わってしまいました。
別に写生ができなくてもいいとは思うのですが、そこから何かを感じ取り、どう表現するか、というところまでは考えられるようになりたいと思いました。
自分の場合は、そうですね、文字で表現するのが今の所一番良いかもしれません。
この辺り、何か整理したいですね。言葉で無いものを言葉で表現するけれども、説明的になっては面白くないなと思います。例えばネモフィラを見て、その違いに気づいたり、或いは何かを感じた時、それをどのように表現するのか、何のために表現するのか、そういった色々の層を分けて考えてみたら面白そうな気がします。
これは、イデアの話に近いなと思いました。我々が生きているのは三次元空間であり、点や線や面は概念として存在していても、空間には存在し得ないという話を数学で習いました。
今回の場合、人は水墨画を面として見るから、この三つが本質的に同じものとなります。しかし、例えば油絵などは立体も本質的に同じものとなるでしょう。
線と見れば線であり、面と見れば面です。同様に、葉と見れば葉であり、春蘭と見れば春蘭とも言えるかもしれません。
いつか水墨画を見る時、このことも覚えておきたいです。
これはすごく大切なことを言っているように思います。そもそも「美」とは何かという問いもありますが、それ以上に人の認識や枠組みのようなものを考えさせられました。
最もわかりやすいのは星空などでしょうか。最近、夜中にふと見上げると、とても綺麗でしたが、普段上を見なければそんなことには全く気がつきません。せいぜい、オリオン座が見つかるくらいです。
しかし、一度心を空っぽにして夜空を眺めてみると、それ以外にもいくつもの星々が見えてきます。中には何か星座になりそうな並びをしているものもあります。それがわかるのも楽しそうですが、一方でわからないなりに見上げるのもいいなと思います。これはトレードオフなのでどちらを取るか悩みどころですが、今はとりあえず無知を謳歌したいと思います。
これは先ほど少しだけ書いた、何のために表現するのか、といったことに近いです。例えば短歌でも、一瞬を切り取ったような歌があります。
一方、水墨画な技法を使って水墨画的でない絵を描くこともできるのだろうなとも思います。既存のものを別の使い方をする、これも芸術の一種かなと思いますが、そういったことを理論的に行うことができれば、芸術家的な思考になっていくのでしょうか。
これは簡単なことを言っているようで、実は結構難しいです。
以前私が絵を描いてみて感じたのは、自由に書こうと思っても、意外と無意識の論理に縛られるということです。
つまり、心を紙の上に映し出そうとした時、その心は意外と色んなものに縛られていて、それすらも絵は映すのです。
だから、湖山先生は最初主人公に紙に自由に書かせたのだろうなと思います。
逆に、これが自由にできるようになれば、自分が感じたものを自由に心の中で鑑賞できるのだろうと思います。
絵を自分の心の表現であるとして、それを取り返しのつかない墨で描いていく。そういう勇気が必要で、それを繰り返すことはつまり自分の心の表現を的確に命がけで表現していくこと、いや、なんか違うかもしれません、上手く説明できません、うーん。
これは大事にしたい考えだなと思います。
最近は目的(ゴール)の為の最短距離ばかりが求められているように思います。そしてそのゴールは本質を伴っていないことがよくあるように思います。
売れる為に絵を描くのが芸術でないことはよくわかります。けれども資本主義の影響が大きすぎる今日では、なかなかそれを完全に無視して考えることができません。ゴッホのような人を目指すくらいがいいのかなと思います。
これ自体は大事でありながら素朴なことですが、このお話の締めくくりとしてはとても良い表現だなと思いました。
どうか今後個人主義が暴走しませんように。
おわりに
思っていた以上に長くなってしまいました。
この本を読むと、実際に水墨画がどのように描かれるのか気になりました。
是非とも映画で観たいので、近いうちに行ってこようと思います。
ということで、最後まで読んでくださってありがとうございました。
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