読書感想文(179)夏目漱石『それから』

はじめに

こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。

今回は夏目漱石前期三部作の二作目です。
面白かった上にかなり読みやすかったので、あっという間に読み終わりました。

尚、今回は本書の他、『三四郎』や『こころ』のネタバレもある程度あるのでご注意下さい。

感想

とても面白かったです。
ストーリーでいえば今まで読んだ漱石作品の中で一番良かったかもしれません。
一番色々と考えたのは『草枕』ですが、ランキングをつけるとしたらそれとこれとどちらが上か迷うところです。

この作品のストーリーを超まとめると、「ニートが社会復帰を決意するまで」といったところでしょうか。あえてこんな書き方をしましたが、間違ってはいないのではないかと思います。
主人公は親の金で悠々と暮らしており、まさに余裕派という言葉がぴったりなように思われました。

また、その主人公が社会復帰を決意するきっかけが恋なわけですが、この点に着目すると前回の『三四郎』の続編であるということが意識せられます。
すなわち、『三四郎』は恋をした相手が既婚者となってしまい、『それから』ではかつて恋をした人妻を再び好きになってしまいます。
主人公についても、臆病な所が共通しているように思いますし、「偽善家」という言葉がP201に出てきたことも、『三四郎』の広田先生の話が思い出されます。
また、「覚悟」という言葉が主人公と三千代さんとで二通りの使われ方がされていたことは、『こころ』が連想せられました。今回の場合、代助の「覚悟」は不倫が許されない社会や家族と戦う覚悟であり、三千代さんの「覚悟」は死ぬ積りの覚悟です。
『こころ』でKのいう「覚悟」においても、先生が推測した「覚悟」は全てを投げ棄ててお嬢さんへの恋の道を進む覚悟という意味と、Kが考えていたであろう死する覚悟の意味とがあります。

彼は自ら切り開いたこの運命の断片を頭に乗せて、父と決戦すべき準備を整えた。父の後には兄がいた、嫂がいた。これ等と戦った後には平岡がいた。これ等を切り抜けても大きな社会があった。個人の自由と情実を毫も斟酌してくれない器械の様な社会があった。代助にはこの社会が今全然暗黒に見えた。代助は凡てと戦う覚悟をした。

P287

「これから先まだ変化がありますよ」
「ある事は承知しています。どんな変化があったって構やしません。私はこの間から、――この間から私は、もしもの事があれば、死ぬ積りで覚悟を極めているんですもの」
代助は慄然として戦いた。
「貴方はこれから先どうしたら好いと云う希望はありませんか」と聞いた。
「希望なんか無いわ。何でも貴方の云う通りになるわ」
「漂泊――」
「漂泊でも好いわ。死ねと仰しゃれば死ぬわ」
代助は又ぞっとした。
「このままでは」
「このままでも構わないわ」
「平岡君は全く気が付いていない様ですか」
「気が付いているかも知れません。けれども私もう度胸を据えているから大丈夫なのよ。だって何時殺されたって好いんですもの」
「そう死ぬの殺されるのと安っぽく云うものじゃない」
「だって、放って置いたって、永く生きられる身体じゃないじゃありませんか」

P311,312

このように、他作品との繋がりのようなものを感じ取れるのは、普段読み慣れない言葉や文体の為かと思います。その分、印象に残りやすいのでしょう。
しかし他作品との繋がりを見ているだけではあまり面白くないので、ここからは作品自体の感想を書いていきます。

衣食に不自由のない人が、云わば、物数奇にやる働きでなくっちゃ、真面目な仕事は出来るものじゃないんだよ

P107

金の余裕は心の余裕といいますか、金の為に働くんでは本当に良い仕事はできないというものです。
後に、寺尾の翻訳の仕事の話が出てきますが、ここでは今の文学は収入の為に書いているものが多くあるということでした(P183)。これは現代の研究にも当てはまるのだろうと思いました。分野にもよるかもしれませんが、とりあえず論文を出して実績を積まなければ食っていけない、ということです。数学者の岡潔は数年に一本の大論文を出せれば良いという考えで、こちらの方が良いなぁと思っていたので代助の考えに共感しました。

人間は熱誠を以て当って然るべき程に、高尚な、真摯な、純粋な、動機や行為を常住に有するものではない。それよりも、ずっと下等なものである。その下等な動機や行為を、熱誠に取り扱うのは、無分別なる幼稚な頭脳の所有者か、然らざれば、熱誠を衒って、己れを高くする山師に過ぎない。

P250

ここを読んだ時、ちょっと坂口安吾っぽいなと思いました。そういえば、坂口安吾は漱石の描く恋愛が肉欲的な部分を描かないから偽物だというようなことを書いていましたが(出典は忘れました)、もしかすると検閲等の時代の制約があったのかもしれないなと思いました。
この作品は明らかに不義を描いていますが、直接的な行為は口吻すら描かれていなかったと思います。

それはともかく、人間は思っている以上に下等なものである、というのは何となくそうだなと思いました。人間は偉いと思い上がってきた結果、進歩主義に異を唱える主張が多くある世の中になっているのかなと思います。

天意には叶うが人の掟に背く恋は、その恋の主の死によつて、始めて社会から認められるのが常であった。

P251

これは恐らく江戸の心中が念頭に置かれているのかなと思います。
しかし恋と死というと、やはり『こころ』が思い出されます。Kの内心は描かれませんが、心中すべき思いを持ちつつお嬢さんを死なせるわけにいかなかった結果、一人で死んでしまった、というトンデモ解釈を思いつきました。

彼は第一の手段として、何か職業を求めなければならないと思った。けれども彼の頭の中には職業と云う文字があるだけで、職業その物は体を具えて現れて来なかった。彼は今日まで如何なる職業にも興味を有っていなかった結果として、如何なる職業を想い浮かべてみても、ただその上を上滑りに滑って行くだけで、中に踏み込んで内部から考える事は到底出来なかった。彼には世間が平たい複雑な色分の如く二見えた。そうして彼自身は何等の色を帯びていないとしか考えられなかった。

P303

こらは多くの就活生が共感する悩みではないかと思います。
先述の繰り返しになりますが、やはり金の為に働かねばならず、それ以外の事はよくわからないという人は多いのでしょう。その中でどう仕事を意味付けるかが幸福に繋がるのかなと思います。

最後にあといくつか気になったところを。
一つ目は百合の花です。はじめに出てきた時(三千代が持ってきた時)は何も思いませんでしたが、後にこれが二人にとって特別な思い出となっている花だとわかります。それを踏まえると、百合の花を持ってきた三千代の気持ち、そしてそれを嫌がった代助の気持ちが推し量られます。三千代は昔と同じ髪型にしていたこと、そして代助がそこに気づいていたであろうこともわかります。
この部分、伏線が良い回収の仕方だなと思いました。

次に、チョコレートについてです。
チョコレート飲むかいという台詞があります(P90)。これが少し気になりました。
国産チョコレートが初めて売られたのは1878年であり、それも輸入品を加工したものでした。原料を輸入品して国産で作られるようになるのは、森永による1920年を待たねばなりません。そして『それから』が描かれたのは1909年です。つまりまだ輸入品を加工した物しか売っていない状態でした。森永のチョコレートが出た頃も、女工の日給の半分ほどの値段の高級品だったそうなので、輸入品に頼っていた時代はさらに高級品だったのでしょう。
チョコレートを飲むということは恐らくココアのようなものだと思います。ココアはチョコレート程の加工は必要ないので、その分安く手に入ったのでしょうか(或いは代助の家だから買えた高級品なのかもしれません)。
この辺り、まだまだ詳しくないので勉強したいなと思いました。

おわりに

他にも則天去私を感じられたところ(P225)や没論理と唯一の事実(P163)といった興味深いところがあったのですが、長くなりすぎるのと眠くなってきたのでこの辺りにしておきます。
この作品は多分また読み返すと思うので、楽しみです。

ということで、最後まで読んでくださってありがとうございました。


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