読書感想文(178)夏目漱石『三四郎』

はじめに

こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。

今回は夏目漱石の前期三部作の一作品目です。

感想

面白かったです。特に後半が面白かったです。
序盤は三四郎と美禰子さんの出会いのシーンも印象的でした。昔、大学の先生が美禰子さんの落とした白い花の意味を話していた記憶があるのですが、詳しく覚えていません。また論文なども漁ってみたいです。
全体的な感想として一つ不満があるとすれば、注釈が比較的少なかったことです。『草枕』や『猫』は注釈が多くあったおかげで、時間はかかるもののかなり読みやすかったです。しかし『三四郎』は注釈が少ない上に、注釈が欲しい所に無くて、別に必要無い所にあることが多かったです。そのため、わからないところが多くあったので、是非今後改訂版で注釈を増やしてほしいと思いました。

また、序盤からキーワードとなりそうでありながらよくわからなかったものをいくつかメモしていたのですが、まだ上手く繋がっていないのでまた読み返したいです。例えば三つの世界の話であったり(P95,96)、「現実世界」の話であったり(P25)。

七年もあると、人間は大抵の事が出来る。然し月日は立易いものでね。七年位直ですよ

P38

かなり具体的な部分ですが、自分も大学を卒業した頃に同じことを考えたなぁと思いました。30歳まで8年ある、8年あれば大抵なことはできるだろう、と。
そして着々と時は流れて今に至ります。
まだ時間はあるけれど、慥かに時間は立易い。
稚拙ですが、戒めとして書き残しておきます。

三四郎は漠然と、未来が遠くから眼前に押し寄せる様な鈍い圧迫を感じたが、それはすぐに忘れてしまった。

P46

これは三四郎が入学してすぐ、他の生徒が卒業生の話をしている場面です。
昔がどうだったのかわかりませんが、最近は早くから就職活動を始めるなど、この鈍い圧迫の存在感がとても大きいように感じます。就活の為のサークル、バイト、ボランティアなど。
そしてその「鈍い圧迫」を「すぐに忘れてしまった」という事はこの作品で意味があることのように思われるのですが、何なのかはよくわかりません。

「ヘーゲルの伯林大学に哲学を講じたる時、ヘーゲルに毫も哲学を売るの意なし。彼の講義は真を説くの講義にあらず、真を体せる人の講義なり。舌の講義にあらず、心の講義なり。真と人と合して醇化一致せる時、その説く所、云う所は、講義の為めの講義にあらずして、道の為めの講義となる。哲学の講義はここに至って始めて聞くべし。徒に真を舌頭に転ずるものは、死したる墨を以て、死したる紙の上に、空しき筆記を残すに過ぎず。何の意義かこれあらん。……余今試験の為め、即ち麵麭の為めに、恨を呑み涙を呑んでこの書を読む。岑々たる頭を抑えて未来永劫二試験制度を呪詛する事を記憶せよ」

P53

これは三四郎が図書館の本を開いた時に書かれていたメモ書きです。
単純に面白いと思う一方で、共感するところが大いにありました。
試験を呪詛した事がある人は恐らく少なくないでしょう。学ぶことを目的としているのになぜ評価されなければならないのか、と。だから、試験の意義を実力を測ることとする人もいるようです。
心の講義というのも、納得できることがあります。私が夏目漱石を読むようになったきっかけの一つが岡潔という数学者のエッセイです。この人の文章には、時代の偏見や思い込みがあるように思われる所もあるのですが、その心は清いように感じらました。そのため、この人の言う事なら聞いてみようか、という気も起こったのです。その中で漱石について述べてた所があり、まさに自分が養いたい感性或いは欠けている感性がここにあるはずだと思い、今こうして読んでいるわけです。
人に何かを伝える時に、それが伝わるかどうかは、心が籠もっているかどうかということは大切であると思います。

「私先刻からあの白い雲を見ておりますの」
(中略)
そうして、あの白い雲はみんな雪の粉で、下から見てあの位動く以上は、颶風以上の速度でなくてはならないと、この間野々宮さんから聞いた通りを教えた。美禰子は、
「あらそう」と云いながら三四郎を見たが、
「雪じゃつまらないわね」と否定を許さぬ様な調子であった。
「何故です」
「何故でも、雲は雲でなくっちゃ不可ないわ。こうして遠くから眺めている甲斐がないじゃありませんか」

P106,107

最後の台詞が印象に残りました。
詩的で、こういうことだというはっきりしたことはわかりませんが、いいなと思いました。
水分子の集まりだろうとなんだろうと、我々にとっては雲であるという事。一方で、雲だけでないことも理解しておきたいと思いました。なんて思うのは、やはり最近はグローバル化、多様性といった言葉をよく聞くからでしょうか。そう思うとかえって、私は雲を雲として見たいと思います。

 吾々は旧き日本の圧迫に堪え得ぬ青年である。同時に新しき西洋の圧迫にも堪え得ぬ青年であるという事を、世間に発表せねばいられぬ状況の下に生きている。新しき西洋の圧迫は社会の上に於ても文芸の上に於ても、我等新時代の青年に取っては旧き日本の圧迫と同じく、苦痛である。
 我々は西洋の文芸を研究する者である。然し研究は何処までも研究である。その文芸のもとに屈従するのとは根本的に相違がある。我々は西洋の文芸に囚われんが為に、これを研究するのではない。囚われたる心を解脱せしめんが為に、これを研究しているのである。

P170,171

ここをいいなと思うのは、まだまだ若いのかもしれません。然しこれくらいの気概があっても良かろうと思うのです。
少し話が逸れますが、古典を学ぶことに対してポリコレ的な点から問題視する人がいます。それに対しては、まさにこれを返せるのではないでしょうか。
決して追従する為だけに学ぶわけではありません。

最後に、露悪家と偽善家の話を書きます。これはP193,194に書かれていることですが、引用すると少し長いので自分なりにまとめてみます。
まず、昔は偽善家ばかりだった。これは社会のため、家族のため、と他人本位でした。それが限界も迎えた時、自己本位が台頭してくる。しかしこれが行き過ぎるとまた不便になってきて、利他主義が復活してくる。こうして繰り返すのです。そして繰り返して行くうちに進歩します。この凡例として、イギリスは露悪と偽善のバランスが上手く取れていて、動かない、故に進歩がないとしています。
今の時代はまさに個人の優先が行き過ぎ始め、利他主義が復活してこようとする辺りではないかと思いました。そういう意味で、個人主義に問題を持っていたらしい漱石の作品を現代人が読むことは大変意義深いことのように思われます。
私はこれから他の作品も読んでいくつもりですが、そういった視点も持って読んでみると面白いかもしれないと思いました。

おわりに

これを読んでいる途中、或いは読み終えた時は、結構難しかったなぁ、まだ少し早かったかなぁと思いました。
しかしこうやって振り返りながらnoteを書いていると、結構色々と考えられる所があることに気づいたので、読んでよかったなと思います。とはいえ、まだまだ読めていない所も多いはずなので、また読み返したいです。

ということで、最後まで読んでくださってありがとうございました。


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