【中央区】佃島 江戸っ子発祥の地
宗教学者の中沢新一さんによると佃島は
大阪の漁民であった森孫右衛門が徳川家康に召し抱えられて、家康とともにこの江戸にやってきて、佃島をあたえられたのだそうです。
また当時の大阪の漁法は発達していたので、在来の漁民をあっというまに凌駕し、森一族は一大勢力を築き、のちに日本橋近辺にできる魚河岸につづくことになります。
また、生魚を取り扱う人達は商品の性質上、城の内部である台所まで入ることも容易だったために、森一族は豊臣方の動向を探る役割をもち、豊臣方との最後の戦いとなった大坂夏の陣で大阪城の台所から出火したのも、この森一族がかかわっているのだと。
(諸説あります。というより、一般的には台所頭の大角与左衛門が火をつけたというのが有力説みたいです。)
もともと人のあまり住んでいなかった江戸ですが、家康とともに大阪から移動してきた森一族を中心とする大阪漁民はその特徴である
「板一枚下は地獄」
という漁が生み出す激しい性格、反権力思想、そして入れ墨を周辺の人に伝えていき、それが江戸っ子の気質の元になったんだという説を中沢さんは言っています。
けっこうおもしろいですよね。確かに江戸っ子の気質って漁師の人の感じと似てる気がします。
明治初期の地図。
佃島と石川島。石川島はこの時は造船所と監獄だったみたいですね。
佃島は不自然な感じで赤い欄干の橋がかかっているようにみえますが、古くから橋はかかっていて周りが変化していっただけなんですね。
大正時代の地図。
監獄はなくなり石川島は石川島造船所となりました。今はここには高層マンションが建築されています。
あいにくの土砂降りの雨で観光客は我々以外いませんでした。佃島自体は小さいのでぐるりと簡単に廻れます。
佃煮屋さんに入り、佃煮を買い、古地図を見ながら街歩きしている旨を伝えて店主さんと少しお話しました。
昔の面影を残すところは住吉神社のみだと聞いて訪れてみました。
小さな神社ですが、徳川幕府開闢以来続く歴史に背筋が伸びました。
帰りは月島でもんじゃ焼きを食べるという観光客定番コースで一日を終えました。
また訪れたい場所の一つです。
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