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【渋谷区】百年前、ここは荒地でした。明治神宮

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2020年10月30~11月1日に行われた明治神宮鎮座百年祭に行ってきました。

「100年前、ここは荒地でした」

とのことが表すように、明治神宮ができる前のこの辺り一帯は、江戸時代は幕府の重鎮、井伊家の下屋敷の敷地。

明治になってからは南豊島御料地となり、明治天皇没後、大正時代に明治神宮となりました。

スクリーンショットをとった場所は原宿側の大鳥居からしばらく歩いて、左に曲がると次の大鳥居の前あたりです。

バブル期の地図でいうとこの辺り。今回はこの場所から明治~昭和を辿ってみましょう。

東京時層地図(昭和59~平成2年)

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(明治9~19年)

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明治初期、雑木林、茶畑、松林、そして池が見えます。

「荒地でした」という事ですが、茶畑などもあるみたいですから、看板の立っているところはそうでもなかったのかなとは思いますね。西側は代々木の練兵場ですから間違いなく荒地です。あ、140年前の地図でした・・・

(明治39年~明治42年)

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明治末期、代々幡村の南豊島御料地と表記されています。

明治天皇の后である昭憲皇太后はこの地がお気に入りだったらしく、ちょくちょく訪れていたのだとか。東側の建物がおそらく休憩どころだと思います。

(大正5年~大正10年)大正9年(1920年)11月に明治神宮は完成。

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明治神宮内の道路などは、現在とそれほど変わっていませんが、おそらく一番変わっているのは明治神宮の森の深さでしょう。

100年前と今では段違いだと思います。

全国から集まった寄付の木の数10万本。

木の掘り出し費用や梱包費用、運搬費用などは全部寄付者持ちというとてつもない申し出にこたえた寄付者の気持ちによって明治神宮の森は形づくられています。

そしてこの木はただ無造作に植えただけではなく、設計がちゃんとありました。

その設計を任された造園技師の上原啓二氏は宮内省諸陵頭の山口鋭之助博士の力添えで大阪の大仙古墳に立ち入り、鬱蒼とした森にその神聖さを感じて参考に明治神宮の森を設計。

三段階のステップで100年後も見据えた森作りをしました。

第一代目、現場に生えている木々を利用して、その間に全国から集められた松の木を植える

第二代目、松の間にうえていたヒノキ、モミなどの針葉樹が伸びてくる

第三代目、カシ、シイ、クスなどの常緑樹が伸びてきて、これらは日陰でも育つので、後継ぎも育ってくる。ここで森は安定した状態で生き続けることができる。

管理しない管理方法で落ち葉や下草の掃除などはせずにそのままに、自然に任せていくという方法のそのほうが森が健全に育つのだとか。

これは山口博士が数多くの陵墓を視察してきた結果、自然放任を旨とすべきことの結論にいたったそうです。

下草をいつも掃かれている代々木公園との違いは明白です。

田舎育ちの私からすると、代々木公園の下草が掃かれている状態の森というのは新鮮に感じています。森の中でシートを敷いてごはんも食べられるんです。

普通、木の生えているところなんて藪がおおくて虫がおおくて立ち入れませんよね?

明治神宮の森は鬱蒼と木々を生えさせ、自然に近い状態にして、人間を立ち入りにくくし、その神聖さを保っていると言えます。

一方で神宮外苑のほうはというと、多くの人が広場で思い思いのスポーツを楽しんだりしていて、一般に開放されている感じがします。いまどきスケボーやってもとがめられない広場は都内では珍しいです。

明治神宮の内苑と外苑。

内苑はすべて純国産で作り上げられ、外から目立たないように作られている陰、外苑は絵画館を中心としてスポーツなど外に開かれた陽。

陰陽で対になっているのだなと感じました。

外苑についてはまた後程。

鎮座100年の世紀のイベントに参加できて幸運でした。


参考:中沢新一 アースダイバー東京の聖地

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