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【千代田区】日比谷のみずほ銀行、鹿鳴館オマージュ説。

鹿鳴館とは

1883年 明治16年に井上馨外務卿が日本の急速な欧米化を目論んでイギリス建築家コンドル設計により建てられ、井上馨失脚と同時にその役割を終え、1890年に華族会館として払い下げられ、鹿鳴館としての運用は6年あまりと短命な施設だった。

1940年 昭和15年 建て壊し。

昭和17年出版の「海軍七十年史談」沢鑑之丞 著 から抜粋すると

・鹿鳴館と聞けば日比谷の華族会館かと承知するほど有名である。
・幕府時代は薩摩宰相侯の中屋敷で明治の御代には博物館もある8,000坪の場所。
・英国建築博士コンデルの設計により、当時としては東京唯一の二階建洋館。
・女子にもなるべく洋装とし、英国語を練習し、ダンスを修行した。
・伊藤博文、井上馨、戸田氏共夫妻諸氏はじめ多数が発起となり、陸海両軍の楽隊を招聘し、ダンスを奨励した。
・宴会あるいはバザーを施して文明圏に遅れぬようその指導を勤めた。
・バザーは寄付のような形であったため、出品していた某国夫人から10数円の品物を買い、百円札を渡したところ、「サンキュー・ベリー・マッチ」と言われるだけで、釣り銭が返ってこなかったので唖然とした。
・ダンスの音楽も研究中であったため、3、4種の奏楽に適し、従ってダンスの種類も少なかった。
・ダンスの音は外堀山下町まで聞こえ、「そらダンスが始まった」と耳をそばだてたという。
・スカートはゴワゴワしているものが多かったから、動くたびにガサガサガリガリと音がしたという
・ある婦人が下女とともに赤子連れで参加したが、赤子が乳を欲し近くの家に上がり込んで、畳座敷で洋装のまま半裸で乳を与える様は滑稽だった。
・正門は今の第一勧業銀行のところにあった。

というように、急速に欧米の真似をしたがために滑稽だったということが書かれている。

本が書かれた時代もちょうど戦中で欧米化に対する批判もあったのだろうけれど、実質5年の短命だったことから当時の人にもあまり受け入れられなかったのだと想像できる。

現在の敷地でいうと日比谷u1ビル、庭は日比谷郵便局、みずほ銀行本部があたる。

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ビル群の一角にただ簡単な碑が残るのみ

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建物があったと思われる場所に移動。

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その場所は郵便局とビルに挟まれた歩道の上。
当時を思い起こせるものは何もないでしょう。
しかし東京時層地図はここに鹿鳴館があったのだと想像させてくれる。

鹿鳴館の正面入り口に移動

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みずほ銀行の本店。

半地下になっていて、アーチ型意匠がなんとなく鹿鳴館っぽいといえばぽいような。

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多分、オマージュして作られていると思うんですよね。絶対わかってやっていると確信(妄想)しましたよ。

建築家は(1981年建築)芦原義信 ソニービル、東京芸術劇場を建築。

芦原義信は府立一中、旧制成城高校、東京帝国大学工学部卒業、戦後はハーバード大学院で修士号を取得、法政大学教授、武蔵野美術大学教授、東京大学教授、日本建築学会会長。

親類も美術家や政治家がたくさん。うーん天才だ。


戦前(昭和10年くらい)の地図。黒門の表記があり。

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在りし日の黒門がこちら。

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「かつてここは島津家の上屋敷があり、前田家の赤門と対抗するように黒門という国宝があったが戦争で焼失。」

というのが前回調べた話でしたが、国立国会図書館のデータベースなどを見ると、そういった逸話は見当たらず、黒門といえば戊辰戦争における上野戦争の激戦地の寛永寺本坊の黒門ばかり。国宝であった島津の黒門を差し置いて、戦地になった上野の黒門ばかりに焦点が当てられているという状態。

そしてこの島津の黒門は現在の寛永寺の黒門(池田家屋敷表門)と似ている。さらにこの黒門は上野戦争の黒門とはまた違う黒門である。

こんがらがりましたので、上野の黒門に行って決着をつけたいと思います。

みずほ銀行(旧第一勧業銀行)鹿鳴館オマージュ説。いかがでしょうか。(既にある話だったりということが結構あります。)

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