ポーとボー
ポーの黒猫を読んだ
ボーはおそれているを観て
三日後のことだった。
おそれているの主語は、自分にある
「行ってきます」に
「気をつけて行ってきてね」を返す自分と
遠くないところに
思い出せないが、何かずるいことをしたような
ずるいことをしたのに気づいたような夢だった。
そうだったのかと思う。
よく眠れて、窓を開けると涼しくて、音もいらない。
恐怖はある。自分の何かを失う恐怖の物語と
誰かの何かを失う恐怖の物語に見えて、そうではないのではと思う。
自分と他人に不可分なところがあれば、
それを失うのを恐れている場合、
自分の一部を失い、損なわれることと
他人の一部を失い、損なわれることへの
恐怖となりうる。
一つの側面からのホラーではない。
両面からのホラーだ。
前向きにとらえるなら
ハッピーエンドにだって言える。
例えば、複数のひとにとって望ましい結末が
共有できるなら、一緒にハッピーにだってなれるのでは?ハッピーエンドな大団円ってやつだ。
ベクトルが違うだけで考え方は一緒な気がする。
一石二鳥?ちょっと違うか。少なくとも、同時に起こる必要はない。
「でも」「たぶん」はいらない場所でも
それぞれが感情を満たすことはありふれている
時間差で一石二鳥の幸福な出来事も、
時間差で一石二鳥の恐怖の出来事も、
それを満たす手段がある。
文字、映像、音楽や演劇。
要はメディアだ。
ばらばらの、たくさんのメディアの
たくさんの画面で
感情を満たすことも多いけど
たいていは、共感とはちがうところにいる時間ばかりなので、たぶん、みんなと同じ恐怖でもいいから、体験したいのかも
でも、やっぱハッピーなほうがいい
ここからは映画を観てからがいいかも
+++++++++++
AとBの恐怖は似ている
AとBの幸福は似てない
も気のせいで、似てるところもあれば、違うところもある。二つをつなぐメディアが似た部分に働きかける。記憶に、不安、希望、これまでに起こりうる感情に。でも、ハッピーに働きかけたつもりがハッピーじゃないこともある。
具体的には書かないけど
主観が客観になる瞬間がある。
客観のまま、一方的に罵られる。
ありきたりな見方だけど、ボーがアリ・アスターだとしたら、シニカルにやらざるをえないのは必然だ
手ぬるいと「かわいそう」が薄まるから
登場人物が投影された自分の一部だとしても、それは自分ではなく、突き抜けてそこまでやらなくてもと思う過剰なところに、今までの作り手が手を入れていない場所があるから
絵空事だとわかっていても
絵空事の境い目に気づかない瞬間のために
母と子の物語のようで
もしかしたら
自己愛に対する恐怖を描いているのかも
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