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「ギフト」なんてなくってもいい、と思うのです

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 「発達障害」が広く認知されるようになって、理解の進んだ部分もあり、まだまだ誤解されている部分もあり、と感じます。そして、誤解されていることの一つに「ギフテッド」という言葉があります。

 「ギフテッド」とは、アメリカでは1978年に
”才能児は、知能・創造性・特定の学問・リーダーシップ・芸術の領域で優れた遂行能力がすでにある、もしくはその可能性があり、ふつうの学校で提供されないサービス、活動を必要とする”
と定義されたそうです。
参考:アメリカのギフテッド教育事情

 その中には発達障害と診断されている人も含まれていて、両方をあわせ持つ人を「2E」と呼ぶそうです。これは「twiseーexceptional(二重に特別)」という意味を持ちます。
 とはいえ、ギフテッドも2Eも明確な判断基準はないそうですが。

 発達障害児全員がギフテッドではない、のですが、最近テレビなどで、まるで大半の発達障害児が「ギフテッド」のように語られているのを聞きました。
 特にアスペルガーは大抵みんなギフテッド、みたいな認識が世間にはあるのでしょうか?
#モヤモヤ



 「発達障害について、そんなにネガテイブに捉えていないんですよ。個性の一つだと思うし、ほらっ何か特別な才能がある人も多いんでしょう?天才には発達障害の人、多いっていうじゃないですか?」
そうおっしゃる保護者の方もいます。

 確かに、何年も前の日付の曜日を一瞬で答えられたりする「カレンダー脳」や一度見た景色を忘れない「カメラ・アイ」など、特別な才能を持つ人もいます。エジソンやアインシュタインなど名だたる天才も発達障害だった、という話もまことしやかに語られます。


 けれど、発達障害という診断が出たという事は、本人や周りの人がその症状によって日々困っている、という事実にほかならないのです。困っていなければ、それは単なる個性です。多少人と違うところがあっても愛すべきキャラクターですんでいるところを、日常的にかなりの困り感があるから「障害」なのです。



 人は「ギフト」を持たなくても、特別な才能がなくても、そこにいるだけで十分に価値があり、愛されるべき存在、のはず。
 発達障害に関するネガティブな誤解に胸が痛むときがありますが、障害児にギフト(特別な能力・才能)を期待するようなポジティブ?な誤解にも心がザワザワ。


 時々noteで自己肯定感の話をします。自分は他の何者でもない、ありのままの自分で充分価値のある存在である、と思える気持ちです。生きていく上で努力や頑張りは必要だけれど、失敗してもつまづいても、それでその人の価値が下がるわけではありません。
 ましてや、能力の違いで価値が変わるはずもない、のですが、、、。


 残念な事に、能力の高さがイコール価値の高さ、という論調を綺麗さっぱり論破出来るだけの知識も経験もそれこそ能力もなくて。
「ギフテッド」って悩ましい言葉だなぁ、と思うわけです。

 以前一回だけ、カレンダー脳を持つお子さんにお会いした事があります。
 そんな話もまた今度。


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