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 ずっと待ち焦がれ、ようやく降った晩冬の雪を窓外に眺めながら、僕は小さく体を震わせた。唯一ある暖房器具は小さな炬燵(こたつ)のみだ。彼女と二人、炬燵の中で足を重ねて微笑んだ。

 僕の住んでいる狭いアパートの部屋に彼女は時々顔を出す。付き合い始めてすぐ、スペアの鍵を渡したときに、いつでも自由に入っていいからねと伝えていたけれど、僕がいないときはコンビニで買った食料品と短い言葉をメモに書き残すだけで決して居座ることもない。彼女はいつも忙しいから、そんなすれ違いを寂しいと思うよりも彼女の健康を心配をしてしまうのだった。けれども今日は二人の休日。

 看護師の彼女と、フリーターの僕。人生で唯一長続きしていると言える音楽のバンド活動では、主にキーボードを担当していて時々ピアノも弾いている。電子楽器より、アップライトピアノの鍵盤の感触が好きだった。バンドがメジャーになるという夢自体はボーカル兼リーダーに委ねられているように思え、僕たちメンバーはリーダーの自転車カゴに乗せられた小さな猫であるかのような気がしている。それだと可愛すぎるだろうか。

 僕はリーダーに連れられながら、彼女には借り物の夢を語る。彼女は「きっと有名になるよ」と微笑んでくれる。僕はいつも遠慮がちに頷くだけだ。

 人にはそれぞれ夢がいくつもあって、それは時に途方もないもので、でも生きる理由となっているのかも知れない。

 もしも宝くじが当たって大金持ちになったらどうする? 大金持ちになりたいな。と買ってもいない宝くじの話を、彼女は取り留めのない会話の流れで振ってくることがある。

 でもそれは誰でも一度くらいは考える話だ。夢という言葉の響きに反響して脳裏にぼんやりと描かれた、小さな夢の塊からこぼれたひと雫をすくい、旅行だのマンションを買うだの友人らに奢りまくるだのと、ありがちなものを答える。

 僕の夢は無いに等しかった。彼女が結婚したいと言えばそうするだろうし、子供が欲しいと言えばそうするだろうし、家を買いたいと言えばきっと買うだろう。それが彼女の願いならば。

 もし、もし本当に宝くじが当たったとして、なら僕はどうするだろう、どうしたいのだろう。彼女を愛し続けるだろうか。バンド活動を続けるだろうか。お金がたくさん入って、食べたいものは何でも食べられて、世界のあちこちを旅行して、それで――。

 これまでちゃんと考えたことも無かった。宝くじの話題なんてくだらない遊びの一つだと思っていたから。

 もし当たったら、僕はもしかするとバンドをやめるかもしれない。それから彼女と両親にお金のぜんぶをあげて。ふと、それから僕はそのままいなくなってしまうんじゃないかというような気がした。なぜそんなことを考えたのか僕には理解できなかった。

「なに考えてたの?」と彼女は炬燵の中で足をとんと突いて笑った。

「人って変わってしまうのかな」

「え、どうしたの?」と微笑みは消えない。

 僕はじっと彼女の瞳を見つめる。そこに湛えられている微かな光が、ちらと舞う雪のように見えたのは、僕の問いに対する動揺のせいだろうか。

「なんでもない」

 今が良かった。今で良いんだ。この部屋もまた、僕の幸せのカゴのようなものだから。大きな何かを求める必要なんてない。彼女がここに居てくれさえすれば僕はそれで満足だ。

「宝くじ当たったらどうする?」と僕が聞く。

「二人で世界一周の旅に行こう」と彼女は即答する。

「当選金が千円でも?」と意地悪く笑う。

「いいよそれでも。いつか行こうね」

 いつか――。

 いつかというそんな朧な夢。期待。夢を見ない僕は人として劣っているのだろうか。

 僕は意を決す。

「僕が何ものにもならずとも、ずっと一緒にいてほしい」

「きみが何ものにもならずとも、ずっと一緒にいるよ」

 彼女を幸福にできる確信も自信もない。それでも彼女は僕を選んでくれている。「僕が幸せにしてやる」と言う気概の一つでも見せられたのなら、もっと良い世界が開かれただろうか。でも、彼女こそが僕にとっての一番で、それ以外には無く、だから僕は間違いなく幸せだった。


      了

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