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新サクラ大戦 the Stage全通したので、溢れる愛憎をなぐり書く

『新サクラ大戦 the Stage』、全9公演を全通しました。せっかくなので感想を残したいと思います。

なお私は1-V、新プレイ済のサクラ大戦ファンで、サクラ評論同人誌の編集なんかもしてます。が、基本的には2014年からハマった後追いで、リアルタイムで見た舞台は紐育の最終公演のみ。いわゆる2.5次元舞台とかもほとんど見てません。ゲーム版の推しは初穂です。

この舞台、個人的には愛憎半ばの感情を抱いています。以下、悪かったところと良かったところに分けて書きます。当然ネタバレありです。

悪かったところ1・「ゲーム版完全再現」という無意味な努力

この舞台、悪さはほぼ、コンセプト面に集中しています

『新サクラ大戦 the Stage』は、第1部(1時間20分程度)がお話を演じるお芝居(歌は最後にちょっとだけ)、第2部(30分程度)がライブという2部構成になっています。このうち、第1部は、ゲーム版『新サクラ大戦』の1話と2話をダイジェストで再現するものです(冒頭に前日譚が入りますが、これも『新サクラ大戦 the Comic』で描かれた内容の語り直し)。まず、これがどうかと思います

本当に疑問なんですが、ゲーム版が発売されてまだ1年経ってない現段階で、果たして同じ話をもう一度見たいと思っているファンがどれだけいるんでしょうか。退屈です。むしろ、アニメ版も不発、ソシャゲ 『サクラ革命』も発表され、『新サクラ』自体の先行きが不透明ななか、少しでも新しい花組の物語が見たいという飢餓感を抱いていた人が大半ではないでしょうか。少なくとも私はそうです。コロナ延期も不利に作用してますが、予定通り3月にやったとしても基本的には同じでしょう。

では舞台で初めて触れる観客(そういう人がどれだけいるかは別として)にとって入りやすいかというと、これも疑問です。短い時間に情報量を詰め込んでいるため、かなり総集編然とした内容になっており、キャラクターの感情の動きが追いづらい部分や、説明されるが回収されない伏線もあります。夜叉の話とか絶対いらないでしょ。

演出・脚本の伊藤氏はパンフレットで次のように語っています。

(シナリオについて)方向性はいろいろありました。前日譚を描くというもの、ゲームと同じストーリーを描くもの、そしてゲーム本編では描かれていないサイドストーリーを描くという3つの方向性です。(中略)やはりゲームをプレイした人が楽しめるものがいいだろうということに落ち着きました。

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ゲームをプレイした人が楽しめるものを作ろうとして、なぜゲームをそのままやるのか……。

さらに「ゲーム版の再現」はお話に止まらず、LIPS(時間制限付きの選択肢)、コミュニケーションモード(主観視点のおさわりモード)、話数の間の次回予告、といった部分にまで及びます。しかし、これも本当に問いたいんですけど、舞台としてその再現に意味はあるんでしょうか。LIPSで毎回展開が変わるって言っても、ちょっとセリフが違うだけですよね?次回予告なんか、ただ踊りながらナレーション読んでるだけです。単に「ゲーム版を頑張って再現してみました!」というだけで、せいぜい悪ノリのお遊びにしかならないと思います。

じゃあ悪ノリのお遊びとして笑えるかというとそれすらできない。演出も演技もお話も異様にマジメで、遊びがない。テンポが速すぎて間がない。「笑っていい」雰囲気が薄いんです。情報量が多いから余裕がないとか、後述する神山の声に合わせないといけないとか、事情はあるんでしょうが、だったらその事情をなんとかすべきです。結果、関根優那さんがカメラに向かってキス顔をやってそれがスクリーンにリアルタイムで大写しになりキラキラした光のエフェクトが重なる、あまりにもアホらしいコミュニケーションモードですら、観客席からほとんど笑いが起こらないという、異様な事態が起こっている(2回目はクスクスと声が聞こえましたが)。

ただ、この点については千秋楽(最終回)では少しだけ事情が違いました。詳しくは後述。

悪かったところ2・「観客が隊長である」という無茶な前提

もう一つコンセプト面での、ひょっとすると最大の問題は、「観客が隊長である」という前提です。今回の舞台版では、新サクラ大戦の主人公であり花組隊長でもある神山くんは、なんと舞台上に出てきません。

ではどうお話を再現するのかというと、観客が神山くんということになっています。つまり、キャラクターが神山に話しかけるときは、役者が観客席に向かって話しかけます。神山が何か喋るときは、スピーカーからゲームで神山役を務めた阿座上さんの声が流れます。いわば、舞台をラブプラスのように観て、擬似的な恋愛関係を役者と楽しめるよう考えられた仕組みと思われます。これに付随して、舞台版では黒子まで含めて全てのキャストが女性で統一されています。女だけの中に一人で入っていく男性主人公の気持ちになって観劇できるわけです。

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(ラブプラスEVERY公式サイトより……こんな使い方してすいません。ラブプラスが悪いわけではない)

ですが、このコンセプトは、少なくともこれまでサクラ大戦が築いてきたものとかなりズレていると思います。旧サクラ大戦はギャルゲーには珍しく、男性主人公(大神一郎、大河新次郎)がヒロイン達と同格に高い人気を集めたことで知られます。プレイヤーは彼らに感情移入してヒロインと疑似恋愛を楽しむのと同時に、一人のキャラクターとして大神や大河の活躍に胸躍らせ、なんならトキめいたりしていたのです。舞台でも当然、大神も大河もステージ上に出ていました。

この傾向は新サクラ大戦でむしろ強まっています。ゲーム版新サクラ大戦はこれまでの紙芝居形式を排し、3D世界をカメラが動いていく画面になったことで、多くの場面で主人公神山の表情や動きがはっきり映されるようになりました。舞台化されている1話は特に、神山の成長物語です。したがって、舞台で神山の活躍が拝めないというのは、サクラ大戦的にも新サクラ大戦的にも、土台が崩れてると言わざるを得ません。

この点について、再び演出・脚本の伊藤氏のインタビューを引用します。

(観客=神山という形式について)客席側に神山がいるようにも見えますが、純粋にお客さんが神山の視点で舞台を観るという、プレイヤーの感覚というのを見せたいというのが今回の狙いどころでもあります。ゲームをプレイしている方でも、人によって主観的な視点で楽しむ人、ちょっと引いて客観的な視点で楽しんでいる人とそれぞれ違うと思うんです。『サクラ大戦』は、そもそもそういうバランスがすごく取れているゲームだと思うので、(中略)マルチに楽しめるようにできれば、原作に並ぶことができるんじゃないかと思っています。
(女性だけの舞台にしたことについて)あくまでイメージとして、帝国華撃団というのは、女性の園なんですよね。そこに異端児としての男性である隊長が入っていって、越えられない壁にぶつかりながらも、コミュニケーションをとって少しずつ打ち解けていくというメインのラインがあるんだと思います。

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それっぽくまとめられてはいますが、主人公も一人のキャラクターとして客観的に見られていることがわかっていながら、観客を神山と同一視するこの形が出てくるというのは論理が破綻しているとしか思えません。女の園で悪戦苦闘する男の隊長、というのは確かにサクラ大戦の一面を言い当てていると思いますが、なら悪戦苦闘する隊長を見せなければ意味がないでしょう。ほんとにこのインタビューひどい。書き起こしが悪い可能性もありますが……。

もちろん、自分が隊長になったつもりで、美少女たちとの疑似恋愛を楽しむのは、サクラ大戦の大きな魅力のひとつではあります。だから舞台版も、サクラ大戦の解釈として全く間違いとは言えません。しかし、それはサクラ大戦の独自性を削り取り、ステレオタイプなギャルゲーにする解釈であって、間違いではなくても、極めてつまらない解釈です(もちろん、ラブプラスが悪いわけではないですが、サクラ大戦としてはという話)。

そして、サクラ大戦としてどうかは一旦おいておいても、根本的に舞台をラブプラスにするのには無理があります。ゲームであれば、プレイヤーが操作し、主人公の行動を決め、ゲームを進める、という相互作用が、感情移入をしやすくしてくれます。ですが舞台にこのような相互性はありません。いや、本来舞台というのは相互的なものなんだろうと思うんですが、前述したようにひたすらゲームの再現をマジメにやり、(回によってばらつきがあるとは言え)ほとんど笑いが起こらないこの舞台で、観客席との相互作用が働いているようには思えません。

たぶんこの文脈で導入されたのが、観客の拍手で神山のセリフを決める「CLAP LIPS」なんでしょう。没入感を高める効果がなかったとは言いません。でも、このシステムは2時間の舞台で2回しか出てこないんです。それでもって舞台全体で主人公に同一化しろというのは、無理というものではないでしょうか。ってか、こんなに再現志向なのに、なんで「花見の準備」をLIPSにしないの

また、ゲームであれば主観視点にカメラを置いて、「キャラに見つめられている」錯覚を作り出すのは容易です。ですが舞台は役者との距離がはるかに遠く、角度も広い。目を合わせる以前に、顔が見えるかどうかが問題です。

そして何より無理があるのが戦闘シーン。ゲームなら神山機を操作できます。でも舞台では、花組は頑張って戦ってますが、こっちは座ってのんきに観劇してるだけです。

ただし、私の観劇体験としては、1回目は本当に違和感しかなかったんですが、2回目以降は多少神山になったつもりで日常パートを観たり、クラリスとのデートにドキドキしたりといったことはできました。なのでこの形式のステージを何度も見ていけば、慣れて楽しめるようになるということが絶対ないとまでは言いません。ただ9回見た現時点での正直な感想としては、サクラ大戦としても単独の劇としても失敗だと思います。

ちなみに3回目のアフタートークで、神山役声優の阿座上さんがゲストとして登場、舞台版の花組5人と勝利のポーズを決める場面があったんですけど。昂揚感が本当にすごかった。これぞサクラ大戦、って感じがありました。これを本編で見たかった……。別に阿座上さんじゃなくてもいいと思うんですけど、神山役はやはり出して欲しかったです。

良かったところ1・舞台版花組は最高!

それでも全通できたのはなぜか。良いところがあったからです。まず何より役者さんは素晴らしい。この5人の花組を作り出しただけで、この舞台には大変な価値があったと言い切ることができます。

5人はそれぞれ演技アプローチが違い、「ゲーム版完コピ」の人から、「ほぼ別人」の人までいます。そのバランスもよかった。以下花組(+すみれさん)についてそれぞれコメントしていきますが、より完コピな人から始めて、一番ギャップがあった人を最後に回します。

・クラリス(沖なつ芽)

完コピ賞はクラリスで満場一致でしょう。おしとやかさ、ロマンチックさ、隠した毒っ気。いやもっと具体的に、声、振る舞い、喋り方まで、本当にゲーム版のクラリスそのまんまです。単純に、クラリスが生きてるという感動があります。アフタートークによると、ゲーム版クラリスの声を舞台期間中も聞いて合わせていたということで、相当研究されたんじゃないでしょうか。

・初穂(高橋りな)

高橋りなさんはちょっとわざとらしいくらい初穂っぽい、元気でちょっと乱暴なキャラを演じています。ただ初穂ってそもそも、自分の考えている自己像、「初穂」を演じているような人なんで、そこも含めて完コピだと初穂ファン的には思いました。後半のライブパートでも一人だけ大袈裟に動いてたりするのがいいです。

・あざみ(寒竹優衣)

寒竹優衣さんのアニメ幼女声が強烈。身長もめっちゃ低くてひょこひょこ動くのが大変可愛いです。ゲーム版のあざみってもう少し大人っぽいというか、実は花組で一番状況を見通してるキャラだった気がするんですが、こういう「大人ぶってるけど実は子供」的な面も確かにあったので、ありだと思います。

・すみれ(片山萌美)

ゲーム版新サクラのすみれはかつての姿と打って変わって、落ち着いた面が強調されていました。一方舞台版のすみれですが、大人な面もあるものの、ゲーム版よりずっとノリがいい。「トッッッッッッッッッップスタァ」も聞かせてくれます(田中公平からの指示でタメを作るようにしたとか)。ご本人もアフタートークでおっしゃってたんですが、昔のすみれにより近いです。確かにこっちのほうがアクションも大きくて、舞台としては楽しい。

・さくら(関根優那)

完コピ賞がクラリスなら、新解釈賞はさくらで満場一致でしょう

ゲーム版さくらはいわば前向きお化け。何の裏付けもないのにずーっとポジティブなことばっかり言って、ついてこない周りにイラついているキャラです。正直感情移入が難しい。

今回関根優那さんは、より人間的で感情移入しやすいさくらを見せてくれました。前向きお化けは一緒です。しかし、「必死に努力している」表現が上手い。さくらとしての努力もそうですし、関根さん自身の努力もです。滑舌とか怪しいところも多々あったんですが(「ていこくかげきだんなのです!」を言えるようになっていく過程を見た)、そのへんも含めて、「がんばれ!」と思わせます。

ちなみに3回目のとき、ソロ曲の最後で実に「素」っぽいはにかみが見れて、いいなあなんて思ってたんですが、その後の公演で、同じ場所で同じような「素っぽいはにかみ」を再現しているのに気づき、いい意味で背筋が凍りました……。

・アナスタシア(平湯樹里)

今回舞台版で一番びっくりしたのはアナスタシア。ほぼ別人です

といっても、「アナスタシアに見えない」わけではありません。花組で占めるポジションはゲーム版のアナスタシアと一緒です。しかし、ゲーム版のアナスタシアって、「セクシーなお姉さん」というイメージで、峰不二子的に隊長を誘惑するシーンもありました。また、過去のトラウマ設定もあって、躁鬱なら鬱側、人との間に壁を作るキャラでした。

舞台版のアナスタシアは全然違います。常に自信満々、朗々と歌い上げるように喋る。声量もすごい。ダンスのキレもいい。振る舞いも含め、非常に凛々しくかっこいい。若干押し付けがましいくらい。物語上でも、周りの女性をかたっぱしから悩殺してしまう。「宝塚の男役みたいなイメージだな……」と思ったら、本当に元宝塚男役だそうで。

正直、演技のテンションが違いすぎて浮きまくってるんですがそこがいい。躁鬱なら躁、コミカルなくらいナルシスティック。でもきっちり実力の裏付けもある。そして時折寂しそうな顔をちらつかせる。このアタスタシア、正直ゲーム版よりも好きです。ゲーム版は初穂推しでしたが、舞台版はアナスタシア推しでいきます

4回目くらいからは、アナスタシアソロ曲を特に楽しみに見てました。ダンスが複雑で激しいんですが、ヒールで踊り切る。曲が進みキーが高くなると、最初は豊かで余裕を感じさせた声が、だんだん絞り出すようになっていく。それがアナスタシアの本音の部分を覗き見るようで思い入れてしまいます。


以上6人、はっきり言って生きてるリアリティが全然違うんですよ。初穂とクラリスはゲーム版そのもの。あざみはゲーム以上にディフォルメされた感じ。さくらとすみれは素の人間性を覗かせる。で、アナスタシアが一人宝塚。一貫性がないんですが、しかしそもそもそういう賑やかでごちゃついた感じこそがサクラ大戦らしさだと思います。

良かったところ2・無茶すぎてアガるバトルシーン

もう一つ、個人的にすごく良かったのはバトルシーンです。サクラ大戦では、ヒロイン達は「光武」や「無限」と呼ばれるロボットに乗って戦います。これを舞台でどう再現するのか。そのやり方がすごかった。

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(ゲーム版公式サイトより)

まず戦闘前にこんなシークエンスが入ります。

鉄っぽい質感のパネルの後ろに役者が入る→パネルに光武の顔が投影される→スモークが焚かれ、パネルが開かれ、役者が武器持ってポーズ決めて出てくる

これ、どうやら「このシーンから先、役者=光武です」って意味なんですよ。そのまま役者が敵と戦うんです。ガンダム00の舞台ですらいちおうコックピット乗ってたよ。「見立て」なんて高尚なもんじゃなく、もはやただデカい声で「この人は光武です!!!!」と言い張っているだけなんですが、この強引さ、嫌いになれない。初代サクラであやめさんがミカエルになったときのようなロックさを感じます。

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それにこのやり方には、サクラ大戦ならではな部分もある。というのもサクラ大戦のヒロインってみんな生身で戦えるし、光武や無限もパイロットと同じ武器で戦うんですよね。そもそもロボット自体を服や鎧のようなものとして解釈している。だから、役者がやって違和感がない、とまではいいませんが、サクラ大戦としては「アリ」じゃないでしょうか。

でも、光武や無限ってそもそも金属で出来たメカですから、生身の人間での再現には限界があります。ローラーダッシュによる移動や、敵の攻撃を装甲で受ける動きはどうするか。

鉄っぽい質感のパネルがここでも活躍します。ローラーダッシュによる移動のときは、パネルが地面を滑り火花が散る。敵の攻撃を防御するときは、敵がパネルに向かって攻撃し、SEが「カン!」と鳴る。パネルが役者と違う場所で動いたりするし、使われ方も多彩すぎるので、本作のバトルは極めて難解です。何をやっているか大体わかるようになったのは4回目くらい。でもわかってみるとかなりがんばってロボ戦の迫力を再現してると思いますし、その解読過程も(不純な喜びではありますが)楽しかった。

そして何より、ゲキテイのリズムに合わせて花組が順番に攻撃を繰り出していくところは心が躍ります。まさに歌劇=華撃。TV版サクラ大戦最終話で、椿が花組の戦いを「まるで舞台を見ているみたい」と形容する名台詞がありますが、それを思い出しました。

良かったところ3・千秋楽(最終公演)

正直千秋楽を良かったところとして挙げるのってどうかと思うんですよ。役者も観客もいわばドラッグをキメているわけで……。でも、単にラリってただけに留まらない「何か」が起こっていたように思います。

まず第1部のお芝居から、これまで原作再現に徹していた中、少しずつアドリブやアレンジが出てきます。鼻歌を歌いアナスタシアとのおしゃべりを喜ぶいつきちゃん、さくら=関根優那の滑舌の悪さを弄るアナスタシア。

もちろん、既に述べたように、この舞台は構造上遊びの余地が小さい。その大勢を覆すには至りません。でも、役者に慣れが出て、単にマジメ一辺倒だった雰囲気が少しだけ変わってきた。もしかしてこの役者陣で舞台が続けば、もっとよくなるんじゃないか。そういう感じが確かにあった。

で、第二部のライブです。ごく個人的なラリ話なんですが、クラリスのソロ曲「輪舞」を聞いているときにすでに泣きそうになってた。「たとえ今夜だけの夢でも、踊りましょロンド……」新サクラ大戦自体人気なさそうだしさあ、この舞台もコロナのせいで空席あったしさあ、どうせ続かないんだよな。この5人の花組、こんなに好きになったのに、今夜でお別れか……「たとえ今夜だけの夢でも、あなたと一緒に……」

舞台上で明らかに異常が起こってたのは、最後から4曲前の「夢見ていよう」以降じゃないでしょうか。私はアナスタシアをずっと目で追ってたんですが、もう演技プランが崩れてるんですよ。これまでの公演では、花組のお姉さんキャラとして、揺るがない雰囲気を出していた。なのに今回のライブパートでは、心から笑顔を浮かべ、全身で感情を表現している。平湯樹里さんの、もっとこの舞台をやりたい、終わるのが惜しい、っていう気持ちが前面に出てきてるんです。

じゃあアナスタシアに見えないかというとそうじゃない。アナスタシアは一見、自分だけの世界に生きるエゴイストにも見えて、実は心のうちに花組への深い愛を隠したキャラだった。だから最終公演になってアナスタシアとしての演技バランスを崩すことが、逆にめちゃめちゃアナスタシアっぽいんです。崩れ方も含めて、アナスタシアならこうなるという説得力があった。演じている平湯樹里さんとアナスタシアがごっちゃになって、でもそのことによって、より強く平湯樹里さんとアナスタシアそれぞれの存在を感じさせる。それが感動的でした。

で、私はそんなに歌謡ショウを見てないですから的外れかもしれませんが、歌謡ショウの面白さもそういうところにあったんじゃないかと思います。声優とキャラがごっちゃになって、なんならメタ発言なんかも飛び出して、それでもキャラクターらしさが崩れず、むしろ魅力が増すという。

そういう深淵に、千秋楽ラスト近くのアナスタシア=平湯樹里さんは触れていた気がします。いや彼女だけじゃなくて、役者として涙を堪えつつ同時にキャラクターを演じていた、初穂・あざみ・さくら・クラリスにもそういう可能性は感じました。もしその境地がいつか、千秋楽というドラッグなしで発現することがあれば、いよいよ凄いことになるんじゃないか、そう思いました。

まとめ

前半に挙げた二つの問題が大きくて、正直この舞台を手放しにほめる気にはなりません。特に隊長を舞台から排除した件については、本当に何考えてんだろうと思います。「新しいサクラ大戦」を作ろうという気概は結構なんですが、それなら「古いサクラ大戦」をきちんと研究してアンサーして欲しい。予約段階で全日程当たったので最初から全通予定だったんですが、初日の後本当にがっかりして、1-2公演はブッチしようかと思ってました。

でも、後半に挙げた3つの点は本当に魅力的でした。特に花組は通うたび好きになった。そして千秋楽で、この花組でもし舞台が続いていけば、本当に「新しいサクラ大戦」が出来上がるんじゃないか、そういう可能性が感じられました。だから今は、サクラ大戦 the Stageに「次」があったということがとにかく嬉しい。そして「次の次」も「次の次の次」も、まだまだ彼女たちが演じる新サクラ大戦 the Stageが観たい。そこについては、手放しで言い切れる私の本音です。


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