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クイズは知識とヒラメキの両方で「遊ぶもの」!

 昨日はクイズサークルの隔月例会に参加した。この手の集まりはここ数年だと疫禍の影響でで中止やオンライン開催が多かったものの、周囲の話を聞くに対策をしつつリアルで顔を合わせる機会も増えてきたそうだ。
 やはりリアルで会うのは楽しい。面と向かってやりとりするのは(たとえマスク越しでも)表情が伺えるし、周囲の反応も分かるからやりやすい。合間の雑談もやりやすいし、何よりそれが楽しかったりする。クイズが一区切り付くと、大抵は出題者や回答者来の間で問題や解答についての感想戦が始まる。問題で白熱すればその余韻も良いものになる。やはりこれはリアルでないと味わえない。まだ油断はならないが、ようやくここまで戻ったかという感が強い。

 クイズというと、ナゾトレでおなじみの松丸亮吾君がこういうことを語っている。

 自分も「勉強」だと思うとあまり楽しさを感じないが「クイズ」は大好きである。ただしクイズで勝ちたいからといって勉強するのもどこか変な話である。松丸君の言うように「考えて、ひらめく」のは重要だ。
 だがこれはクイズにも当てはまる。別に特別な知識がなくともクイズは解けてしまうのだ。以前こんな問題があった。

Q:野球の実況で、ピッチャーの投球に対して「バッターがボールを見送った」となった場合、その判定はストライクかボールかは/判断しかねますが「外野手がボールを見送った」と言い切った場合、その判定はたいていの場合どうなる?

A:ホームラン

 なんじゃそりゃと思うかもだが、ちゃんと正解が出た問題だ。野球を知っていることを前提にしているものの、知っててもこの方向に閃くかどうかが鍵を握っている。ちなみに問題文中の「/」はこの部分で正解が出た、という印。つまり正解者はそこで閃いた……ということ。出題者が問題文に秘めた意図を先読みして「これだ!」となった瞬間なのだろう。

 では謎解きはどうか? いくら「考えて、ひらめく」のが重要とはいうものの、問題の意図が読めなければどう考えても答えには辿り着かないのである。ウチの両親(七〇代)がTVで謎解き問題と遭遇するたびに
「そもそも何を聴いてるのかが分からん……」
 と、謎解き以前の段階で詰まってしまう様子を見てきた。一方で、親にとっては「○○で一番□□なものは何でしょう?」のような、よく聞かれるクイズの問題文はきちんと意図を理解している。答えを知っているかどうかは別として。 

 だからクイズも謎解きも「(出題側の)意図を読めるかどうか」という点では共通している。ただ知識とヒラメキの比率がちょっと違うだけだ。自分はそう思っている。

 もちろん、知識が多ければ多いほど答えられるクイズの量は増える。しかしだからといって「クイズのために勉強する」のは正直ツマラナイ。面白くないからだ。
 例えば自分のイントロクイズ好きも「楽しいし、面白いから」続けられている。主に昭和歌謡曲ばかり答えているが「もっと答えられるように、最新の楽曲も聴いてみよう!」とはならなかった。実際以前やってみたものの、曲がどうにも身体に合わず
「無理やり新しいものに合わせるくらいなら、自分の肌に合うものを探して聴く方ががずっといい」
 となり、止めた。所詮日常的に最新の楽曲を聴いてる人達には敵わない。しかしここだけは譲らんぞ、という気合いは十分である。

 問題を聞いて出題側の意図をいち早く読み取った上で閃き、ボタンを押して正解した時の快感を、自分は何度でも味わいたい。本当のジジイになるまでずっと楽しみたい。
 もっともその場合「ほらほらアレだよ、アレ!アレ!何だっけ?!」とかなってるかもしれませんが。

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