ダイレクトパス-非二元系悟りワークと中心帰納 その2

非二次元系だけでなく、悟りを解説する文献は難解である。その要因は何かと考えると、概念そのものが難解なのかもしれないがそれ以外にも、多くの解説で専門用語に定義を与えない、また、一つの解説記事の中で使われる用語に一貫性がないという要因もあるように思える。実際、ロットの本で「単語自体に意味があると誤解されたくないので、説明のために使っている単語に一貫性を待たせなかった」(←主張に疑問が残るが)といっている。もう一つの難しさの要因が、解説するために文章を書いている著者自身が、「頭では理解できない」と言い切っている点にある。ロットの本に「「気づき」がこれだとわかってしまうと、あまりに日常的なものなので言葉で正確に表そうと言う欲求が弱くなる」とあった。しかし、これから非二元の体系を学び実践しようとする初学者が、解説文から自分が探そうとするものがどんなものか頭で理解できないのだとしたらどうやって探せばいいのだろう?悟りや非二元の体系のような精神世界の理解と言えども、他の理論や技術の体系を習得するのと同じように、頭の中で概略や概念を理解してから、実習やワークで体験に落とし込む、という二段階のアプローチは有効に思える。この記事ではまず、私がこれまでに手探りで調べたり理解した用語の定義と同義語を整理する。次に、ロットとグッドの本で紹介されていたワークのうち、私が理解を進める上で特に有効だったものを要約して紹介する。

1. 用語の定義と同義語の整理

二元-Dualityの日本語訳。非二元の体系においてDualityは、認識の主体と客体が分離した状態を意味する。私は邦訳の二元の「元」の由来がすぐに思いつかなかなくて困った。はじめてこの言葉を見た時は、二ならば、数学の次元(Dimension)のように三元や四元が可能な概念なのか?と混乱した。chatgptによると集合論における集合の要素(元)が由来ではないかとのこと。これが語源なら確かに任意の数の元が可能と誤解する。二元と言う邦訳が使われた経緯をchatgptに聞くと、デカルトの「省察」で議論されていた精神と肉体の分離の議論を、それ以降の西洋のデカルト研究者がDualismと解釈したのを、明治時代の日本人が(どうしてかはわからないが)、二「元」論と翻訳したのがそのまま悟り系のDualityに当てられたのではないかと言っていた。非二元で扱う「二元」には、任意の数の元がありえないので、個人的にはDualityを「双対」と訳す方がいいのではないかと思う。だから、non-Dualityは「非二元」ではなくて、「非双対」と訳す方が、初見でわかりやすいかもしれない。ここまでの議論で明らかであるが、二「元」(Duality)は、数学の「次元」(Dimension)とは関係ない。

気づき-awarenessの日本語訳らしい。awarenessは「気づき」だけでなく「認識」と訳すことができる。だから、「意識」、「自己意識」、conciousnessは、同義である。実際、グッドの本に、「consciousnessは古臭いからawarenessを使っている」と言う話が出てきた。つまり、「気づき」は「自己意識」と同じ。ロットの本で出てくる「これ」と同じ。非二元の体系では「現れ」が浮かぶ空間のことを指している。この記事で議論するが「気づき」に到達したすぐの段階では、「気づき」に浮かぶ「現れ」を認識する機能主体である観照者(the witness)やawareness(気づき)自体が現れを目撃するとする「witnessing awareness」(=観照意識)という言葉も登場する。確認できていないが「透明な観照」という節では、「観照」という単語が出てくるが、これがwitnessなのかawarenessに対する訳なのかよくわからない。このような単語の乱立の背景には、「気づき」に浮かぶ「現れ」がどのように認識されるかという「気づきの中の二元性問題」がある。最終的には、「the witness」(観照者)も「witnessing」(観照する行為)という機能も「気づき」に統合されるらしい。

マインド(心)-思考、感情、感覚、記憶、想像、意図する、注意する、選ぶ、集中する、こだわる、眠る、感謝する、愛する、嫌う、発達する、平衡を保つ、などを司る主体である。マインドにも世界をwitness(認識)する機能がある。下のワークをやると、「マインド」は「気づき」とは全く別の意識主体であることがはっきりする。つまり、マインドは、「気づき」が「現れ」を目撃することによって世界を認識するのとは全く違う方法(例えば論理や推理によって)で、世界を認識している。さらに、マインドは気づきによって認識されなければ存在しない。だから、驚くべきことに、「マインド」は一次的な認識主体ではない。非二元の考え方では、「マインド」は「気づき」空間に現れるイメージ「現れ」の一つであると考えられている。

現れ-「気づき」の空間に現れる全ての事象(マインドだけでなく、自分の身体を含めた世界に存在する物理的な存在全て)は、「気づき」に映し出された実体のないイメージ(現れ)だと考える。

観照意識-witnessing awareness(目撃している気づき)の日本語訳らしい。the witnessと言う言葉も登場する。これが観照意識に当たるのかもしれない。「気づき」が「現れ」を認識する行為または行為主体をいっているようだ。つまり、awareness(自己意識)は、現れをwitness(認識)する。

2. ワークの紹介

ロットとグッドの本の中で紹介されていたワークのうち、私にとって特に効果的だったワークを選んで紹介する。

W1  椅子に腰掛けて目を瞑ってください。あなたは本当に椅子に座っていますか?その証拠はなんですか?これまでの経緯やこれまでの記憶は全て脇に置いて、今あなたが直接確認できる証拠はなんですか?
—- 椅子の感触を感じています。
その感触は本当に椅子なのか証拠はありますか?これまでの経緯や記憶は傍に置いて、今得られる証拠だけで答えてください。
—-椅子だと言う証拠はありません。なにかの感触があることだけは確かです。
感触の原因である何かが存在している証拠は本当にありますか?
—-えー、いいえ。証拠は得られません。「何かの感触がある」ではなくて「感触がある」と言うことしか証拠がありません。
その感触には端っこがありますか?あなたの体の形や大きさも、これまでの記憶です。一旦傍においてください。今は感触だけに集中しているので、体の感覚は確認できません。
—- 感触しか確認できませんので、その感触だけがあります。だから端っこはありません。
つまり、「気づき」は無限の大きさを持っている、と言うことです。

W2 あなたの「これが自分だ」という意識をどこに感じますか?
—- 両目の真ん中の三センチくらい奥、ビー玉くらいの大きさのものを感じます。
そこから外の世界を見ていますか?
—- はい。
そうかもしれませんが、一旦立ち止まってください。そのビー玉を外側から見ている視点はありませんか?ビー玉は世界を観照しているものではなくて、観照されているものではないですか?ビー玉を観照している主体が、「気づき」です。ちなみにビー玉はマインドの核として物質世界を認識している「気づき」とは別の認識主体です。

W3 あなたを悩ませている思考が、自分のものだとわかるのはなぜですか?あなたの思考を自分のものだと認識している主体があるのではないですか?
—- え?
あなたの思考を観照している主体が「気づき」です。

「気づき」の視点のままさらに確認してください。あなたを苦しめていた思考を「気づき」の内側から確認すると、あなたが直接に確認できるものはなんですか?思考の内容(嫌なことを言った人や言葉)は確認できますか?確認できるのは、思考から生まれた体の不快感、痛みだけではないですか?では、不快感と痛みに集中してください。不快感と痛みを引き起こした対象を直接経験できますか?
—-できません。
今あなたは思考に苦しんでいますか?
—-体の不快感や痛みもなくなってしまいましたし、苦しみを引き起こしていた人や言葉が確認できなくなってしまったのでもう苦しくはありません。
「気づき」が思考を観照するのをやめてしまえば、「現れ」である思考が消えてしまうことを確認しました。あなたが思考に苦しめられている時はいつでもこの方法で思考から逃れることができます。

そのまま「気づき」にとどまってください。別の思考が生まれては消えていくのが確認できませんか?
—-はい、観照できます。
「気づき」から「現れ」の一つである思考を観照する現場を確認することができます。

W4 どんな感覚も思考も自分のものだと認識されるためには「気づき」が必要で、「気づき」がなければどんな感覚も思考も認識できない、と分かった時、人は「気づき」の視点に立っている。

まとめ 

このようなワークを通じて、「あなたは誰ですか?」という問いに対する回答が変化したことに気づかないだろうか?「私はこの身体でもないし、心でもない」、という考えに同意できるようになっていないだろうか?そうすると、私の体が滅びた後、私の心が崩壊してしまったとしても、「気づき」としての私が存在し続ける可能性について以前より中立的な立場になってはいないだろうか?さらに言うと、もし「気づき」がなければ、つまりは自分が存在しないことになる。これはかなりショッキングな考えではないだろうか?

以上のように、非二元の枠組みで世界を再構築すると、世界の全ての物体(今いる部屋や自分の体)や思考を含む心(マインド)の全てが、気づき空間に浮かぶイメージ(現れ)ということになる。これにより、物質世界の通常の考えである「私がいて部屋がある」、「私が生み出した思考」と言う二元性が解消する。この二元性は、「私が持っているもの、もっていないもの」という考えを生み出し、分離感、孤独感となって我々を苦しめていた。非二元の枠組みである「全てが気づきの中にある」と言う世界観が腑に落ちることで、これまであった分離感と孤独感が解消することになる。これはこれで大きな前進だ。しかし、これまで見てきたように、「気づきが現れを目撃する」ならば、「気づき」の中で主体と客体は依然として分離していることになる。確かにこれまでとはかなり異なる形ではあるが、これでは世界の二元性は維持されたままだ。この問題についても、ロットとグッドの本で議論されていたので、次回はこの点について考察を進めたい。


注) グッドのダイレクトパスにおける主張の問題点: グッドの本の中で、「直接の経験から認識できないから、ない(存在しない)のだ」と言う記述が頻発する。これは論理的に誤りである。認識できなくても存在する可能性はあるので、「あるともないとも言えない」とするのが正しい。

追記) このように見ていくと、ダイレクトパスが説明する非二元の世界認識は、「各個人にとっての世界はその個人の表象(イメージ)に過ぎないと主張する「唯識思想」」と非常に似ている。ただ細かく見ていくと違う点が数多くあり、ダイレクトパスで説明する精神世界と詳細に比較することで、非二元の世界の理解がさらに進む可能性がある。


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