新 紀暢(あら きのぶ)

新 紀暢(あら きのぶ)

最近の記事

ある日ハッと気づく

目を覚ましたら知らない遺跡のようなところにいる。周りにたくさんの人がいることに驚くが誰も私がここにいることに驚いていないことに安心する。話してみると私を歓迎してくれたり、仲間として意地悪してきたりする。大丈夫。私がここにいることに誰も違和感を持っていない。辺りを見回して目についた壁まで歩く。壁の様子を確かめて、叩いてみる。ハリボテじゃない。ここはどこなのだろうか?そもそも自分はここではないどこかにいたはずだ。どこにいたのだろうか? 「無我」について教えていただいた。この世界

    • 自覚ワークと中心帰納

      無元塾に辿り着いて最近に至るまで、頭の中で「自分はあの人によく思われてる、だってあの時ああ言ったのだから」というオチのストーリー紡ぐための思考でいっぱいだった。これをこうやって頑張ればストーリーが上手く繋がるはず、と激しく仕事の成功に駆り立てられたりしていた。仕事がうまくいきそうな時にはそういうストーリーが割と簡単にできたり、逆にうまく行ってない時には、そんなストーリーがうまくできずに、代わりにだからお前はダメなんだどういうストーリーができて延々と自分をいたぶるような展開のス

      • またあの顔

        時々、子供のままの顔をした大人がいる。またあの顔だと思う。特に高い地位、それも、ど偉い高い地位にある人のニュース写真なんかで見かけることが多い。特に、スキャンダル的な記事、それも国の体制を揺るがすようなニュース記事に使われている写真の場合は、写真を選ぶ記者にも悪意があってそういう写真を選んでいるのかもしれない。でも大抵はその写真だけでなく他のニュースの写真にも、ちゃんとその同じ表情の要素を見つけることができる。なので多分その人物が持っている特徴的な表情要素のようなものなのだろ

        • 「外界に向いた意識を自分に戻す」について

          無元塾で中心帰納を初めて習う時、「お腹に意識を置く」と習います。自分で書いたタイトルも含めて私は、これらの文章の主体はなんなんだ?と悩んでしまった。おそらくこれらの文章は、無意識に「私」を主体として作られた文章なのだろう。悩んでしまった理由は、これらの文章が最終的には「私の意識を私の意識に向ける」という意味になるためだった。例えば、カメラがカメラ自身の姿を写すことができないように、「私の意識を私の意識に向ける」ことは原理的にできないんじゃないか?と考えたのが悩みの始まりだった

        ある日ハッと気づく

          「中心帰納」というなんだかわからないものを継承するお手伝い

          合気道無元塾で中心帰納をならってもうすぐ三年になります。実は、私には中心帰納がなんなのかよくわかっていない。もちろん、いろんな約束事の上でのことだが、私でも中心帰納をすると相手がフラフラしたり、場合によってはポテっと倒れてくれたりするので合気道の文脈では確かに武術のテクニックの一つなんだとは身をもって理解している。確かに、格闘技の技術としては他ではあんまり聞かない話が多いので、無元塾白石先生に習いにきてる人には格闘技の一線で活躍している人がいるのもよく理解できる。 よくわか

          「中心帰納」というなんだかわからないものを継承するお手伝い