「外界に向いた意識を自分に戻す」について

無元塾で中心帰納を初めて習う時、「お腹に意識を置く」と習います。自分で書いたタイトルも含めて私は、これらの文章の主体はなんなんだ?と悩んでしまった。おそらくこれらの文章は、無意識に「私」を主体として作られた文章なのだろう。悩んでしまった理由は、これらの文章が最終的には「私の意識を私の意識に向ける」という意味になるためだった。例えば、カメラがカメラ自身の姿を写すことができないように、「私の意識を私の意識に向ける」ことは原理的にできないんじゃないか?と考えたのが悩みの始まりだった。

この疑問を突き詰めると、「私」または「私の意識」という単語で表現していた主体は、複数の機能要素で構成されていると考える他ない。現時点の私の理解では「私の意識」と言っていたものは、少なくとも「頭にある意識」と「体の表面にある意識」と「お腹にある意識」の3つに分かれる。「頭にある意識」は、1+1をやるような論理思考を司どる機能要素、「体の表面にある意識」は真っ暗闇、例えばお化け屋敷に入った時に周囲を伺うような時に活動する機能要素、「お腹にある意識」、、はなんだろう?腹が立つという言葉があるけれど私が見つけた「お腹にある意識」はあまり感情とは関係ないようだ。意識としては存在しているけど特段何かを思考したりもしないようだ。

中心帰納の状態は、「体の表面にある意識」が「お腹にある意識」に向かっていて、「お腹にある意識」が360˚の外界に向かっていて、かつ「頭にある意識」の活動ができるだけ低下した状態、と考えている。このような状態を作ると確かに「相手がフラッする現象」が起きやすい。「相手がフラッとする現象を起こすのが中心帰納なのだ」と言う定義に従うと、上に書いた意識の状態が中心帰納ということになる。合気道を始めて今日までにたどり着いた結論としてはこれでいいだろう、という気がしている。

ただ、「相手がフラッとする」だけでは格闘技の一つとしての合気道には足りない。定義を言語化できて、再現性がある「中心帰納」の新しい定義を見つけないといけない。これが次の私の課題なのだろう。

(参考)中心帰納を初めて習う時、「お腹を意識する」と言う表現も使われる。この表現は「私がお腹を意識する」と主体を明示しても意味をなす。しかしたくさん練習する中でわかったのは、頭にある思考の意識を肉体としてのお腹に向けても、「相手がフラッとする」と言う結果には繋がらないと言うことだった。

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