ある日ハッと気づく

目を覚ましたら知らない遺跡のようなところにいる。周りにたくさんの人がいることに驚くが誰も私がここにいることに驚いていないことに安心する。話してみると私を歓迎してくれたり、仲間として意地悪してきたりする。大丈夫。私がここにいることに誰も違和感を持っていない。辺りを見回して目についた壁まで歩く。壁の様子を確かめて、叩いてみる。ハリボテじゃない。ここはどこなのだろうか?そもそも自分はここではないどこかにいたはずだ。どこにいたのだろうか?

「無我」について教えていただいた。この世界のことは何一つ、あるかないかもわからないし、ましてやはっきりと言葉で言い表すことはできない、という意味だそうだ。1+1=2であることだってわからないらしい。その理屈として、1+1=2であることがわかるためにはそれを成り立たせている論理を精査して証明しなければならないというのだ。一段下がった論理にもやはり前提となる公理があってこれは自明だとか言って話が始まるわけなので、自明についてもさらに一段下がった証明が必要なはずでこれは永遠に続いてしまう。だからこの世の中の基本的なことだってはっきりと証明できてるわけじゃないか、というのだ。この世の中の全て、1+1=2よりもっと複雑なことは、もっとはっきりと説明することはできないというわけだ。確かにそうなのかもしれない。

でも、この、世の中のことをはっきりと説明することはできないのだとする説明が、私にはよくわからなかった。私の感覚を辿ってみると1+1=2であるというのは決まり事だ。私のペンネームが「新」であるのと同じように誰かが決めたことだ。私たちの言葉でなんで「おはよう」というの?とか言われても一応の説明はできるがそう決まってるんだよ、っていうのとなんらかわらないような気がする。言語体系と同じように1+1=2を受け入れてしまうと良いことがある。決まりごとをどんどん積み上げていって算数というか数学の体系を作ることができる。数学を使って例えばニュートンの運動方程式とかも書いてみて確かめてみると確かにとても上手く行く。なんで運動方程式がでてくるのかについても、変分原理みたいなものから説明することもできる。変分原理によると、あるパラメータを最小化すると運動方程式が導かれる。ああ世界はこのパラメータを最小化するようにできているか、とわかった気になる。しかし、なんでそのパラメータを、なんで最小化しているのか?については全くわからない。だから世界がなぜこうなっているのかはわからないのだ、というのなら理解できる。そうか、それなら理解できる。

一方で、最初の1+1=2の話が出たように説明が永遠に続いてしまうこと自体については、我々の言語体系と同じように数学だって限られた知能を持った人間がとりあえず作った言語体系なのだから、我々の論理体系が不十分なだけで世界そのものが理解できないものであるという理由にならないような気が、私はしていたのだと思う。

ここでふと考える。人間が作った言語体系の一つの数学が、一部であるにせよ、なんでこんなに正確に遺跡の世界を記述できるのだろうか?そして変分原理の話を思い出しこう考える。どうも冒頭で描写した見知らぬ遺跡の世界は"そのようにできている"らしいと。しかし、誰がいつどのようにしてそんな遺跡を作ったのだろうか?そして、この壁のさらに奥には何があるのだろうか?

ちょうど遺跡の構造を調べようと手に入る材料でハシゴを作って遺跡の高いところの様子を見るように、とりあえずいろんな決まり事をゴテゴテと積み上げて遺跡について理解してみようと試みてみたら思いの外上手く行った。そこで私たちが作った数学に相当する原理を使って遺跡ができている、さらには遺跡を作った誰かも同じ言語を使っていたのではないかと想像する。

でもなんでこんなものが目の前にあるか、なんでそんなにいろんなものがうまく積み上がってしかも動いているのか、謎は深まるばかりである。なぜこんなに遺跡の世界は複合的に巧妙に出来上がっているのかと感嘆するしかない。

とにかく自分はこの世界にいてこの世界の決まり事のいくつかはわかったのでいいじゃないか、ここでなんとかやっていこう。考えようによってはここはいいところじゃないか。

でも自分はどこから来たのか、この世界はなんなのかわからないままだ。

地球が美しい球形で、そのほかにも同じような美しい球形をした星が太陽の周りを回っている。太陽系がどれだけ安定してその挙動を維持するものなのか不安に思った中世のヨーロッパ人の考えはもっともだ。それからこの体も。上手くできすぎている。何か怪しい。ほったらかしにして自然にできた体系にしてはできすぎている。なんなんだ私を取り囲むこの世界は?

小学生の頃、確か道徳の教材に法隆寺の建築に関わった人の話が出ていた。あの建築では生えている木の性質というか立ち方というかくせみたいなもの、つまりは木々のそれぞれの個性を建築物の一部として組み上げるのだそうだ。ゼロ戦の実物を目の前にした時も似たような感覚を感じた。

これまで、なんかそういう、バイオミティック的な考えで物を作るって単に賢いなとだけ思っていた。でもそれだけじゃないような気がする。そう言う世界に入り込む人は、この世界がなんでこんなふうにできてるのか無意識的に、そのできように惹きつけられてるのだろうという気がした。世界のありようを表す何かを、手に入る大きさに切り取って目の前で再構成して、自分の手の中にとり入れたかったのではないかと思った。

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