そばは喰っても喰われるな

私はそばを食べるのが趣味だ。趣味という程のものでもないかもしれないが、日々の楽しみであることは確かだろう。それらしい蕎麦屋を見つけてはふらっと入り、ざるそばを一枚頼む。つるっとそばを食べ終え、温かいお茶を一杯飲み干し、お勘定をして店を出る。言ってしまえばこれだけのことだが、仕事の合間の休憩としてはこれ以上のものはない。


今日も取引先との打ち合わせが早く終わり、行きがけ目をつけていた蕎麦屋に足を運ぶことにした。明らかに年季が入った外観に似合わず、お財布が痛まない値段設定でとても好感が持てる。磨りガラスの引き戸をガラガラと開けると、壁際に2つのテーブル席と、いくつかのカウンター席だけのこじんまりとした内装が目に飛び込んでくる。カウンター席は半分ほど埋まっているが、すでに大半の客がそばを食べ終え、寛いでいた。これなら待つこともないだろう。一番奥の席に座り、そばを頼む。昔気質の職人なのだろう、店主は「はいよ」とだけ返事をして、早速作業に取り掛かる。目の前で切られていくそば生地がこれから自分の腹を満たしてくれると思うと期待感が増してきた。

5分ほどで出てきたそばは美しいものだった。普段であれば目に留まらないようなこじんまりとした店でこんなそばをお目にかかれるとは。こういった発見があるから、蕎麦屋巡りはやめられないのだ。まず、何本かのそばを箸でつまみあげ、そのまま口へ運ぶ。そばの香りと、つるっとした感触がそのまま喉を素通りしていくかのように感じられた。今度は一口分のそばをそばつゆに軽く潜らせ、音を立ててすする。麺も素晴らしいものだが、このつゆもなんとも言えない逸品であった。つゆを覗き込むと、端の方は椀の色が透けて見えるほど澄んでいるにも関わらず、椀の中の方になると、まるで底が無い穴のような、重厚な闇がこちらを覗いている。ついつい見惚れていると、不意に水面が揺れたような気がした。不思議に思いさらに覗き込もうと、椀を顔に近づけようとした時、ついっと手が滑り、そのまま椀の中へ顔から落っこちてしまった。

やってしまったと思っても後の祭りであるが、闇の中を闇雲にもがいていると、ふと手に固い感触を覚えた。そちらの方に目をやると一群の鰹が尾を捻らせて闇の中を泳いでいく。これはしめたと、一匹の鰹を捕まえ背に乗り込むと、最初は嫌がるように身を震わせていたが、諦めたかのように群れの最後尾に着いて、また闇の中を泳ぎ始めた。物心つく前からイルカの背に乗って泳ぐのが夢だった自分にとっては、またぐらの下にいるのが鰹であろうと、心躍る体験であったことは間違いない。鰹の群れはそのままグングンと泳いでいく。すると、前の方に大きな谷が現れた。断崖絶壁という言葉がぴったりくるような岩肌が向かい合わせになっており、ここからでは谷底の様子を量り知ることはできなかった。呑気に観光気分を味わっていた自分は、群れの先頭の鰹が谷底に吸い込まれるのを見るまで事態の重さを把握できていなかった。続々と谷底に吸い込まれる群れに顔を青くして、鰹から飛び降りる。幸いそれほどの速度が出ていなかったのか、着地は難もなく、谷底に駆け寄ると、自分が乗っていた鰹の尾びれが谷底の闇に吸い込まれていくのが見てとれた。

谷の幅は自分が寝転んで5人分はあるだろう。飛び越えようにも、なか程で真っ逆さまになるのは目に見えている。これはどうしたものかと途方に暮れているとどこからか声がした。
「渡りたいのか?」
振り返ると、そば色の髭を蓄えた老人が立っていた。
「渡る方法があるのですか?」
老人は、藁にもすがる思いで絞り出した問いには答えず手に持った杖でコツンと地面を叩いた。
「食べ物を出せ」
交換条件というわけか。何か持っていないかと服をまさぐる。前のポケットには昼前に食べた飴のゴミだけ。すがる思いで後ろのポケットに手を入れると、ざらざらと白ゴマが溢れ出した。これ幸いと両手をゴマでいっぱいにして老人に差し出すと、老人はもう一度地面をコツンと叩く。だが、なにも起こらない。
「おい」
老人に声をかけようとしたところで、老人の目線が上を向いているのに気がついた。目線を追って上を見上げると、どこからか風の切る音が聞こえてきた。目を凝らすと、ひゅーという間抜けな音と共に大きな割り箸が落ちて来ているのが見えた。慌ててその場から離れると、ズシンと重い音とともに綺麗に割り箸の橋が谷にかかっていた。これには私も驚いたが、礼を言おうと振り返ると、忽然と姿を消していた老人にはさらに驚いた。

気を取り直し、橋を渡ることにした。割り箸は先を谷の向こう側に向けており、先細りのようになっていたが、太さは十分であった為、落ちる心配はないだろう。橋に足をかけると、ざらざらとした木の感触が迎えてくれた。安定性も申し分ないようだ。そのまま慎重に橋を渡り、谷のなか程まで来ると、異変が起こった。箸の橋の端がみるみる開いていくではないか。今はまだ、なんともないが、このままではすぐに割り箸が真ん中から綺麗に二つになってしまうであろう。私は慌てて橋の上を走り、谷の向こう側に飛び込んだ。
しかし、今一歩のところで手が届かず、パキンと竹を割ったような音を響かせた橋と一緒に谷底へ落ちていった。


気がつくと、目の前にあったはずのそばがいつのまにか綺麗になくなっていた。
「俺のそばを食べたのは誰だ!」
人生でこれほど大きい声を出したのは初めてかもしれない。それほど、反射的に叫んだ自分に、店主が申し訳なさそうに近づいてきた。

「あなたです」


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