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価値と僕

価値って何だろうって考える。
もちろん人それぞれ。
価値観はその人の見てる世界なわけだから。
他人の視界をジャックするのなんて「欲視力」がないとどうにもならない。
でも、人が何に価値を感じてるかが分からないと人と話すこともままならない。



最近世間では、ゴッホの絵にトマトスープをぶっかけた環境団体の若者が話題だ。
僕の中でも結構話題に上がってる。
ニュースの見出しを見た時に「バカな」と思った。
ガラスで保護されていたため絵自体は無事だったと知った時、「ほっ」とした
その時分かったのは僕がゴッホの絵に価値を感じている事だ。
見ず知らずの他人が描いた何輪かの花の絵が失われなかったことに安堵を覚えた。
この感覚はどこから来るのだろう。






環境団体は「命とアートのどちらに価値があるか」世界に問いかけたかったらしい。
1枚の油絵に価値を感じる人々が地球という私たちの家を踏みにじっている現状に異議を唱えたかったのだろう。
僕個人の意見としてはそんなものは比べるものじゃないし、二者択一でどちらかを選ばなくてはならないものでは無く、どちらも大事にしていけばいいと思う。
ただ、僕達が漫然と考える「価値」にどれほどの「値うち」があるだろう。
アートは確かに「価値」がある。
その指標は分かりやすく「お金」に代えられている。
それはただの指標であり、「価値」の本質では勿論無い。
見る人を感動させる、歴史的に希少、描いた人物の生い立ち、絵画の歴史の中での革新性。
その様々な物が乗っかった「価値」が「お金」として可視化されているだけなのである。
つまり、その代金を積めば同じだけの「価値」を生み出せるものでは無い。
複雑な要素の絡み合ったかけがえのないものだと思う。
「お金」という物差しに誤魔化されて見えなくなっている「代替不可能性」が「価値」であろう。
僕が2歳から今まで大事にしているクマのぬいぐるみもこの「代替不可能性」を持っている。





地球も勿論代替不可能であろう。
それを大事にしている環境団体の主張は理解出来る。
しかし、この若者たちは僕達の「価値」を理解していないだろうか?
ただ、値段を見てゴッホの絵を狙ったのだろうか?
遠い国ニッポンの若者が胸を痛めた感覚を、『ひまわり』を目の前にして、トマトスープ缶を片手にした若者が無視できるであろうか?







震える手で缶を開ける。
膝の力が抜け、地面に倒れ込みそうになるのをなんとか耐える。
ここだけ重力が違うみたいだ。
わが星に悪態をつきそうになるのをぐっと堪える。
「何のためにこんな事をしているのか思い出せ」
やっとの思いで缶を開けきる。
「よし、よしっ」
練習よりだいぶ時間がかかってしまったが、周りはまだ不審に思っていないらしい。
缶を振りかざし慎重に狙いを定める。
ド真ん中に命中させなくては。
インパクトが大事だ。鮮烈に、センセーショナルに。
その時、そのひまわりの花弁と目が合った
こちらを向いた、ひまわりは何事かこちらに語りかけている。
血を吸ったひまわり。赤に飾られた黄色が目の前に広がり、チカチカする。
ギュッと目を閉じ、そのまま缶を振り下ろした。
永遠に感じる沈黙。そして仲間たちの歓声。
恐る恐る目を開ける。
今僕は「価値」を汚したのだ。

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