笑みがこぼれる飲食店経営を目指す Smile Free 1

私の飲食業 経験 第1弾 

「飲食店は儲かる商売だ」、 

「飲食店は1日3回 “食べる”という需要が生まれる安定的な商売だ」、

「飲食店は立地が良ければ繁盛する商売だ」

と言われた時代がありました。今では夢の様な話です。

朝から晩までスタンバイ、営業、クロージングと動き回り、1日に必要な人員が集められず、
食材は高騰し、集客の為に掛けたマーケティングコストは効果が薄く、高い家賃に苦しめられる、5年生存率は15% 

などなど

ネガティブな要素ばかりでいやになりますが、事実

ビジネスとして飲食店をする事は自殺行為?

金儲けの為ならやる商売ではなくなって来ています。

でも、挑戦する人たちがいる。

それは、美味しい物を作り、お客様に笑顔になって貰いたい

お客様に寄り添って心からのサービスをして「ありがとう」の一言を貰う

そんなことを幸せに感じる人たちです。

その様な人たちがいるからまだまだ魅力的な商売です。

しかし、時代は大きく変わっています。

今こそ進化しなくてはならない時です。

ダーウィンの進化論!

「生存する者は大きい者でも、強い物でも無い、環境の変化に適応し進化できる者だ。」

飲食業で今進化を遂げられなければ「死滅」が待っています。。

どの様に進化し生存し、そして勝者となって行くのか?

私の長年に渡る飲食業の経験を生かし、「いつも笑って飲食経営を続けて行ける」事を
ご一緒に考え共有して行きたいと思います。

今回より数回は私の経験について語らせて頂きます。

私が飲食業に足を踏み入れたのは大学を中退した1981年。もう40年以上の前の事です。
大学を中退した私は、まず食わなくちゃならない。そんな状況に置かれました。

人一倍食べる事が好きな私には、食を削って暮らすと言う事は考えられませんでした。

そんな人間がアルバイト先として見つけるのが賄い付きの飲食店。
そんな形で飲食に入り一生の「生業」としている人も少なくありません。(私もその一人)

アルバイト先として見つけたのが、その頃オープンし間もない話題の新宿のセンチュリーハイヤット。そこでの洗い場の業務でした。
ホテルは調理場と洗い場パートが分離され、洗い物は専属パートが行う形でしたが、近くにはコックさん達が働いており、ナイト勤務の時はこっそりと見習いさんが練習にために作った料理などを振舞ってくれたりして料理への関心が芽生えた時期でもありました。
1年ほど勤務しましたが、私のいた部署の上司の問題で辞めざるを得ない状況になり仕方なく町場のレストランで働くことになりました。

そこは世田谷尾山台の環八沿いにあったスイス風山小屋レストランと言うコンセプトで、ログハウス調の店舗でフランスが帰りのシェフが腕を奮う店でした。高級店では無くファミリー対象の店でしたが、そのころ急激に店舗展開していた「すかいらーく」「ロイヤルホスト」などとは一線を画すある程度本格的な料理を出す洋食レストランでした。
私は単純に洗い場のアルバイトとして入りましたが、洗い物はホテル仕込みです。ちょっと今までのアルバイトとは違うという印象を持たれたみたいで、ちょうど調理スタッフが不足していた所、そこのコックさんに「君には料理センスがある、いつまでもフリーターのアルバイトなんかしてないで、ここで料理を学んだらどうだ。」と言われたのです。

料理にも関心があったので、いつまでもブラブラせず料理人を目指すかという決意で正社員として働くことになったのです。後から思えば人がいなかったからうまい事言って騙されたと思いましたが、始めてからは料理の勉強に励み、高い料理書を月賦で購入し、休みの日は有名店のランチの食べ歩きに行ったり、家で作ってみたい料理を試作したりと一生懸命でした。

しかし、転記が訪れたのは2年ほどそこで勤務した時の事です。ちょうどストーブ前というメインのポジションを覚え始めた頃でした。

突然私の親友が自殺したのです。

死ぬ1週間前に私を訪ねて「ウツ」状態でしきりに何かを訴えていましたが、支離滅裂でどの様に慰めたらいいのか?話を聴いてやればいいのか?わかりませんでした。
1杯やりながらしきりに「有難う」「有難う」と言っていた事だけ記憶しています。結婚を前に彼女との問題があったようです。
仕事に追われていた私にはちゃんと向き合う事ができなかったのです。

そして1週間後、仕事から帰り最寄りの駅を出ると、同じ仲間であった別の親友が立っていて、目を合わすや否や

○○が死んだ。と一言。

私は「しまった」とその場にうずくまってしまいました。
すぐにその親友の家に行きましたが、整備工だった彼は、電線を体に巻き付け感電死と言う方法で命を絶ち、まだその電線が体に巻き付けてある状態でした。
死に顔はとても穏やかな感じでしたが・・・・

葬儀が終わり、駅で私に彼の死を告げた親友と話をしていた時です。
彼は私に、「ちょっと助けてくれ、うちの店で働いてくれないか?」と行って来ました。
彼は数年前から親から出資して貰い居酒屋チェーンのフランチャイズ店を経営していました。居酒屋のチェーンがもの凄く増えていた時です。
駅前の超優良立地で、それこそ立地が良ければ飲食店は繁盛する時代です。
バブルに入りかけの時でもの凄く忙しく、今とは違った状況で働く人が不足していた時代で、信頼できる右腕が欲しかったのです。私は修行半ばで勤めていた洋食店を辞めるのは惜しい気持ちも大きかったのですが、死んだ友人を助けてやれなかった分、困っている友人を助けようという思いが勝ちその店を手伝う事に決めたのです。
その時の判断が正しかったかどうかはわかりませんが、そこで多くの事を学んだことは確かです。

とにかくめちゃくちゃ忙しい店でした。60坪120席の店は月間坪30万円を上げる繁盛店。
12月は予約だけで120席が埋まり、週末は常に100万の売上。
調理、接客、宴会取りの営業、顧客管理と昼3時半に出勤し明け方5時まで働きづめでした。
本当に過酷な日々でしたが、多くの事を学んだと思います。

そこは「よろこんで」で有名な居酒屋チェーン 本部は「うちは居酒屋じゃない大衆割烹だ」というチェーンです。そこまで言えばどこかは推測できると思いますが、当時しのぎを削っていた居酒屋チェーンが衰退した中で今でも凛と外食ランキングの上位にいるチェーンです。
特に勉強になったのが、人と人との触れ合いで関係性を築きリピート化するテクニックです。
SNSなど全くない時代です。

とにかく来て頂いたお客様に期待以上のサービスをしようと必死でした。

✓新規のお客様のおしぼりは広げて「お疲れ様でした」と言って直にお渡しする(現在はタブーかもしれませんが)

✓常連のお客様のファーストドリンクはいつもお飲みになる物を言われずともお出しする、

✓瓶ビールがメインの時代、一杯目の乾杯ビールは直接お注ぎする、

✓たばこを吸うお客様には火をお付けする、

✓女性のお客様を「お姫様」と呼び、デザートのサービスをさりげなくする、

✓宴会をしてくれたお客様には後日勤め先まで伺いお礼と次回使える一人分のコース無料券を配る
など

この様な事を繰り返すと、初めて来たお客様がリピートしてくれるようになり、週2,3回のお客様が毎日来るようになり、また、大人数の予約を再度してくれたり、紹介してくれたりと言う形でリピート化が進み売上は伸びて行きました。

現在はこれだけで十分とは思いませんが、このリピート化の手法は最も基本で大切な方法であり、今でも確実に通じる方法です。

どれだけお客様の期待以上のサービスを提供できるか?
これはリピート化目指す上で「不変の原理原則」です。

そんな過酷な労働環境の中でも色々と学んでいた私にはまたしても転記が訪れます。

4年ほど勤めてから次第に代表である友人との方向性や考え方のズレが生じて来ました。
「おまえはチェーン本部の独立制度を使って自分の店を持てばいい。それまで頑張ってくれ」と友人は言うばかりで、店をまかせっきり、飲んで歩いているような状況でした。

独立制度と言っても 本部の研修には行かせて貰えず、何よりも経営上必要な店の数字を明らかにして貰えない事がとても不満に思えたのです。

そんな日々を送っている中、近くのパチンコ店でアルバイトしている韓国人の留学生たちが常連として来るようになりました。

実は、私は父親を韓国人、母親を日本人に持つ在日韓国系の日本人です。
父親が帰化した関係上国籍は日本でしたが、思春期の頃から、自分は日本人?韓国人?というアイデンティティの中で悶えていました。大学を中退したのもそれが原因です。

その中途半端な私のアイデンティティのポジショニングはその時まで続いていて、その韓国人留学生達に関心を強く持ったのです。

ある時片言の韓国語で挨拶をしてとても驚かれました。

「なんだ、お前韓国語が話せるのか?」

「はい、アボジ(父親)が韓国人です。」

と言うような会話を契機に、その人たちが来店するたびに勤務中でありながらも、身の上話を少しずつ話すようになりました。

そんなある日その中の一人が「お前、そんなに自分の事が知りたいんだったら韓国に行って言葉を勉強すべきじゃないのか?親父さんの国の言葉も話せなくちゃ自分を見つけるなんてできないよ!」と少しきつめに兄から諭される様に言われたのです。
「ソウルの語学研修できる有名なスクールを教えてやるから考えて見ろ」と言われ真剣に考える様になりました。

そんな事を考え始めてから、代表である友人とのズレは益々大きくなって行き、ついに大きくぶつかり決別する事になったのです。

そして留学を決意したのです。
(その友人とは今は心から語れる飲み友達に戻っていますが)

独立の為に貯めていた貯金を叩いての決意でした。

1988年 ソウルオリンピックの年 28歳で留学の途に就いたのです。

その留学が私の人生を大きく開花させる契機となるのです。

長くなりましたが、今回はここまでとします。

次回は留学を経て、飲食店のコンサルタントになって行く過程をお話ししたいと思います。

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