アライグマ社
仔猫型スパイ・しぐれちゃんは現在、ハンドラー候補の藤波岳とともに、「ふつうの暮らし」体験中! あたらしいこと、たのしいこと、しぐれちゃんの好きなものさがしの記録です。
「……岳。目を開けてください、岳」 ささやき声に薄く目を開け、岳は思わず顔を顰めた。 起き抜け、目の前に突きつけられたらペン型ライトの光でもかなり眩しい。しかも真っ暗な寝室でだ。 「しぐれ? 何だ、夜中だぞ?」 「尋問です」 鼻先がくっつきそうなほどの近い位置で、しぐれが言った。岳の胸に馬乗りになって身を乗り出している。目が完全に据わって、瞳孔が真っ黒だ。 「正直に答えてください」 「何を……?」 「しぐれに、隠し事をしていますね?」 「え?」 しぐれに隠している
商店街にあるたい焼き屋の前にはいつも賑やかだ。客がいれば客の行列、客がいない時にはスズメがたむろしているからだ。 いわゆる天然、手焼きのたい焼きは大将が焼いている。一度に五匹焼き上がると、女将さんがハサミで余分な部分を切り落として形を整えるのだ。 スズメたちの狙いは落とされたそのバリ部分だ。ほどよく焦げた甘い生地は、きっとごちそうなのだろう。 「岳、おさかなのあんこのやつはお家でも作るんですか?」 年齢から察して、この道四十年以上と思われる大将と女将の連携プレー
岳としぐれが暮らすマンションのすぐ近くにある商店街は活気がある。季節ごとのイベントもあるし、なにより、買い物客が多い。 郊外出身の岳には、車で乗り付けて買い物をする大規模なショッピングモールのほうが馴染みがある。が、下町らしさの残る都心部というものの良さはわかる。 日課の散歩で歩く商店街は迎春ムードが濃い。昔ながらの商慣行が残る地域であるから、年明け五日くらいまでは休みで、新年初売りを迎えるのが六日、七日あたりになるのだ。とはいえ大規模視閲とは違って、初売りといっても、
「冷蔵庫のしぐれ煮は残り10グラムですよ、岳」 「わかっている」 「バナナもです。すこやかバナナ、駅伝部さんのお写真のがいいです」 「わかっている」 「チーズもたべたいです」 「……ん? どのチーズだ?」 「カマンベールチーズ、こっちのやつです」 チーズ売り場の冷蔵ケースに手をついて背伸びして、奥の列に並んでいた木箱包装のものを手に取るのはさすがとしか言いようがない。しぐれは多種多様な情報を持っている。ないのは実体験だ。 「カマンベール、食っても大丈夫なのか?」 二歳
こんにちは。 2023年2月1日よりまいにちお届けした「しぐれろく」は、3月より、週に1〜2回の不定期更新となります。 また、2月更新分と書き下ろしをまとめる予定もありますので、ときどきのぞいてもらえるととてもうれしいです。 しぐれに会いに来てくれて、ありがとうございます。 あしたからも元気よく、たのしくまいりましょう。 (NK)
朝の体重計測を終えたのに、しぐれが仔猫のままでいる。 なるほど。 今日はそういうターンか。 岳は特に追求はせずに家事任務に移ることにした。 掃除、洗濯、食器類の片付けを終えたら散歩兼買い物に出かける予定だ。作戦行動に遅れは許されない。 しぐれの着替え一式はソファの上に用意しておいた。 気が済んだら自分で着るだろうし、手に負えなければ「岳、お着がえしたいです」と声をかけてくるはずだ。 が。 体重計を片付けた岳の足の上に、仔猫が居座っている。まさしく足、
「チーズと餅のもんじゃ焼きとウィンナー焼き、焼きそばをお願いします」 「それから、生ビールとびんいりのラムネもです」 岳が注文すると、すかさずしぐれが付け足した。 しぐれのおしゃまっぷりに慣れた店員は「小さいコップも持ってくるわね」と笑顔で受けてくれた。 二十坪くらいのもんじゃ焼き屋は時々食べにくる店だ。基本的に外食は避けるようにしているのだが、岳だってたまには生ビールを飲みたい日もある。 鉄板座卓が8席の店は十八時を過ぎると宴会客もくるので、岳がしぐれを連れてくる
「あ」 おにぎりを作ろうとしてラップを引っ張ったら、切れた。岳は淡々と、ストックしてあった新しいラップの封を切った。 備品は常に切らさぬように管理している。次回買い物時に補充すべく、記憶しておくこととした。 「岳、それください」 「ん? 芯か?」 いつの間にか足元にいたしぐれに言われ、岳はラップの芯を渡してやった。 どうせ捨てるだけのものだから好きにしていいものだが、何をするのかは気になる。 ラップの芯を受け取ったしぐれは、軽やかな足取りで岳から離れた。キッチ
いつものスーパーに買い物に出かけると、風除室のカート置き場に見慣れないものが並んでいた。 「これは……!」 しぐれが小さく息を飲んだ。 「なんだ、知ってるのか?」 「一般名称・子乗せカート、通称・ファミリーカートの特殊タイプ、くるまシート付き『ぷちカーくん』です。先日、店長がどうにゅうするって言ってました」 しぐれの情報網には、いつのまにかこの店の店長まで加わっているらしい。 岳は軽くこめかみをおさえて、通称ファミリーカート特殊タイプくるまシート付き『ぷちカーくん
洗濯物を片付けてリビングに戻ると、しぐれがいなかった。 さっきまで着ていたものがテレビの前に落ちていたので、仔猫の姿になっているのだろう。 やれやれ。 岳はため息を吐いた。 しぐれは時々、いや、わりと頻繁に、岳を訓練したがる。具体的にはかくれんぼだ。部屋の中のどこかにいるしぐれを見つけ出せたら訓練終了である。 「おーい、しぐれー」 岳はこたつ布団をめくった。 いない。 「ここか」 ソファの下、裏。いない。 エアコンの上、いない。 「……どこだ?」
現在時刻〇二〇二。脈拍、呼吸、体温すべて異常なし。熟睡。 素早くチェックした金色の瞳が暗がりで光る。訓練を積んだ情報将校といえども、ミューミントの本気の前では赤ちゃんのようなものである。 灰色の影が跳ねた。 暖かいベッドは魅力的だが、今はそれより優先するべきことがあるのだ。 二月の深夜であるが、エアコンとオイルヒーターのあるマンション内はどこも温度湿度は一定に保たれていて快適だ。 フローリングを進む灰色の影。 もちろん、物音のひとつもしない。気配もない。
「!」 買い物に行くためにマンションを出たところで、しぐれが急に立ち止まった。 しぐれが衝動的な動きをすることはとても珍しい。岳はさりげなく、周囲を警戒した。特に異常は感じられない。 訓練を受けた情報将校である岳である。常に気を抜くことはない。が、感覚的な部分では、猫の知覚を持つしぐれに勝てるわけもない。 猫としてのしぐれは、生後二ヶ月程度の仔猫なのだが。 「岳」 「……どうした」 「今日はあっちのスーパーに行きましょう」 声をひそめて言うので、岳は目で頷
「こ・こ・か・らキラキラ こ・こ・か・らシャイン♪」 リビングでしぐれが歌っている。 風呂を洗っているから岳には見えないが、たぶん踊っているだろう。いや、踊り狂っているという方が正しいかもしれない。 「ぴっかぴかぁのエブリディ! コ・コ・カ・ラ・シャインきらきらしましょぉおおー♪」 ドラッグストアのテーマソングは大抵どこのものでも、店名が連呼される。ココカラシャインの曲もそうだ。 つまり、ここからが本番。 「ぴっかぴかぁのエブリディ! コ・コ・カ・ラ・シャイ
しぐれはミューミント、Animal-Intelligence計画に基づき作り上げられた諜報用装備である。 ハンドラーである岳はしぐれに「ふつうの暮らし」を体験させている最中であるが、訓練が必要なのは言うまでもない。 「しぐれ。今日の午後は訓練だ」 朝食をとりながら言うと、コップを両手で持ったしぐれがわかりやすく口を尖らせた。 「えー。明日にしませんか」 「明日のほうが絶対に寒いぞ」 「……はぁ。仕方ありませんね」 ミューミントという特殊な性質を持っているとはいえ
家庭料理を作る際に大事なことは次の二点だと、岳は思う。 まず第一は献立立案。これは最初の課題であり、最終課題なのかもしれない。 素材、栄養、調理難度諸々を考え合わせた上で、何を作るのか決めるのは言ってみれば、作戦目標の設定である。目標設定が曖昧では、任務遂行は難しい。また、必要なものの調達も目標次第だ。予算も含めて、買い物計画は副次的なものと言えるだろう。 ただし、家庭料理熟練者はスーパーで見かけた素材から逆算的に目標設定することもできるという。岳にはまだ到達し得
その日は少し遠出した岳としぐれは、自然たっぷりの大きな公園に来ていた。風は冷たいがいい陽気で、散策を楽しむひとたちが結構いる。 早々に手袋と帽子を脱いで岳におしつけたしぐれは、遊歩道をどんどん歩いていく。整備された遊歩道に沿って植えてあるのはツツジのようだ。 「急ぐと転ぶぞ」 「ころびませんよ」 声をかけてもお構いなしだ。いつもと違う場所に興奮しているのかもしれない。こたつの虫になられるよりは健康的である。 岳はしぐれの後ろをついてあるくことに専念した。 ゼ