『父がひとりで死んでいた』(如月サラ著)と極めて個人的な母との思い出
東京でフリーランスエディターをしている如月サラさんのデビュー作『父がひとりで死んでいた 離れて暮らす親のために今できること』。
ここでは書評のようなものではなく、如月さんのエッセイを読んで思い出した極めて個人的な私の母のことを書こうと思います。
母は認知症とクローン病を患っていた
私の母は認知症とクローン病を患っていたため、なかなかいわゆる認知症向けの施設に入ることはできなかった。
父の定年を待ったかのように発症した母を「自宅で介護する」という選択をしたのは父本人であった。
しかし自宅での介護は半年で限界を迎え、どうにか入院できる施設を父が見つけてきた。すでに就職して10年以上たち、雑誌編集部から広告部へと異動していた私は、忙しいことを理由にほとんどお見舞いに行かなかった。
危篤の連絡を受け真夜中にタクシーで向かった
そんなある日、「危ないかも」という連絡を受け、真夜中に東京・池袋から埼玉の越谷・せんげん台までタクシーで向かった。
ひと晩、父と一緒に母の容体を見届け、その日は持ち直したので、一度私は自宅に戻った。
その2日後の朝、息を引き取ったということを父からの携帯電話で知った。雑誌のタイアップの撮影があり、その現場で聞いた。
如月さんが日経ARIAの連載で書かれていたその言葉に、以前の自分もそうだったなと思い出した。そのあとに続いている如月さんの言葉にも、同意する部分が多い。
母の死後、父は妹の家の近くに引っ越した
母の葬儀のあと、川口にあった自宅を売り、父は妹の住む近くに家を買い、引っ越した。私は離れて暮らしているが、妹夫婦が孫を連れてよく父のことを見てくれている。
母の葬儀に来てくれた当時の会社の副社長に、
「Aくん(私のこと)はお母さん似なんですね」
と言われたことが、とてもこそばゆく、とても嬉しかった。
私が食べるもの、食べること、が好きなのは、石川の農家の娘だった母の影響だと言っても過言ではない。母の教えは「どんな時でも、美味しいものをいっぱい食べなさい」だったから。
同年代のエディターからの大きな問いかけ
私は母を亡くして10年以上経ち、離れて暮らす父は妹が見てくれている。そんな中読んだ『父がひとりで死んでいた 離れて暮らす親のために今できること』は、何を問いかけているのか?
文章を書く人間にとって、こんな最大級の賛辞は見たことがない。
こちらの記事もどうぞ>>
【虹の苔寺】京都・東福寺塔頭・光明院(こうみょういん)で「看脚下」(かんきゃっか)と「灯」をみる
https://note.com/arai0903/n/n310273a301e0
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?