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『父がひとりで死んでいた』(如月サラ著)と極めて個人的な母との思い出

東京でフリーランスエディターをしている如月サラさんのデビュー作『父がひとりで死んでいた  離れて暮らす親のために今できること』

遠く離れた実家で、父が孤独死していた――。東京でフリーランスエディターをしている如月サラさんはある日、予想もしなかった知らせを受けます。如月さんは50代独身、ひとりっ子。

https://business.nikkei.com/atcl/plus/00023/121000001/?ST=ch_plus

ここでは書評のようなものではなく、如月さんのエッセイを読んで思い出した極めて個人的な私の母のことを書こうと思います。

母は認知症とクローン病を患っていた

私の母は認知症とクローン病を患っていたため、なかなかいわゆる認知症向けの施設に入ることはできなかった。

父の定年を待ったかのように発症した母を「自宅で介護する」という選択をしたのは父本人であった。

しかし自宅での介護は半年で限界を迎え、どうにか入院できる施設を父が見つけてきた。すでに就職して10年以上たち、雑誌編集部から広告部へと異動していた私は、忙しいことを理由にほとんどお見舞いに行かなかった。

危篤の連絡を受け真夜中にタクシーで向かった

そんなある日、「危ないかも」という連絡を受け、真夜中に東京・池袋から埼玉の越谷・せんげん台までタクシーで向かった。

ひと晩、父と一緒に母の容体を見届け、その日は持ち直したので、一度私は自宅に戻った。

その2日後の朝、息を引き取ったということを父からの携帯電話で知った。雑誌のタイアップの撮影があり、その現場で聞いた。

まだインターネットが世の中になかった頃に雑誌のエディターとして社会人を始めた私は、そもそもなぜその職業に就きたかったのか。それは「誰かのあしたを幸せな方向に変えるきっかけをつくりたい」からだった。

https://aria.nikkei.com/atcl/column/19/031900214/101900009/?P=3

如月さんが日経ARIAの連載で書かれていたその言葉に、以前の自分もそうだったなと思い出した。そのあとに続いている如月さんの言葉にも、同意する部分が多い。

母の死後、父は妹の家の近くに引っ越した

母の葬儀のあと、川口にあった自宅を売り、父は妹の住む近くに家を買い、引っ越した。私は離れて暮らしているが、妹夫婦が孫を連れてよく父のことを見てくれている。

母の葬儀に来てくれた当時の会社の副社長に、
「Aくん(私のこと)はお母さん似なんですね」
と言われたことが、とてもこそばゆく、とても嬉しかった。

幸いな(?)ことに、生前、教育ママであった母のおかげもあり、遊ぶことではなく勉強することであれば、お金は出してくれた。(中略)

もちろんまるっきりお金がかからないわけではないが、美術館と本はとてもリーズナブルだと思う。自分に無理せす、いくつになっても楽しめる趣味が持てたのは、人生をとても豊かにしてくれている。

https://note.com/arai0903/n/nd272ecaf5bb4

私が食べるもの、食べること、が好きなのは、石川の農家の娘だった母の影響だと言っても過言ではない。母の教えは「どんな時でも、美味しいものをいっぱい食べなさい」だったから。

同年代のエディターからの大きな問いかけ

私は母を亡くして10年以上経ち、離れて暮らす父は妹が見てくれている。そんな中読んだ『父がひとりで死んでいた  離れて暮らす親のために今できること』は、何を問いかけているのか?

透明な心が透明な言葉を書くのでしょうか

https://twitter.com/kisaragi_sarah/status/1469823623662026755

文章を書く人間にとって、こんな最大級の賛辞は見たことがない。

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