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同情と酌量が事実解釈に混在するといいことがない

海外住みの目線から日本を見ると、過去の出来事、境遇から心を病んで抜け出せない人々が多い先進国のトップはもしや日本ではないか?と思います。

その割に、欧米並みのケアが少ない。さらに、カウンセリングや心療内科の受診がまだまだ人目を気にするものであり、それによって就職や勉学に支障が起きたり、他人が勝手な解釈で毛嫌いをすることは多々あると感じます。

そのため、心のケアが必要な人が、周囲に認められるための行動として、自分は病院に通っている、投薬治療をしている、と度重なる出会いの中で何度もカミングアウトをせねばならない精神状態に陥る場面も見かけます。

私はその度に、そんなこと無理に言わなくていいんだよ、と呟きます。実際、そのように打ち明けても、人の見るものは変わらないからです。

得でも損でも、身についたものは財産です。

私は自分の生い立ちを考えてもそう感じて生きています。私も決して順風満帆ではありませんが、それをnoteや友人に話すことはない、墓まで持って行く、人が聞いたら眠れなくなるだろうことを持つ身であり、自分の問題は自分でなんとかすると決めています。

だから逃げるし、人に頼るし、よく考え、よく学ぼうとしています。

人から私がカラッと生きているように見えるのは、二つ、

自分に同情しない

人の心の弱さに寄り添わない

からだと思います。特に2つ目は、解釈では冷たい、と思うかもしれませんが、これはとても大事なことで、

自分が何か、例えば壮絶ないじめにあっていた、とか、安倍氏襲撃の山上容疑者のように家庭が特殊な事情で不和だったり、ということには理解は覚えても、それについてあえて分析や彼が今後幸せに生きるために思案したりしない、ということです。

一線を置いて事件や人を見つめることは大事です。事実にいつでもふわふわ漂う特徴を持つ「感情」を注いでも誰のためにもいいことはありません。

そして、罪を犯した人がいたとしたら、それを採択、精査し罪を決めるのが法であると私は思います。



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