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表現・言葉・植物・アート

自分が生きてたこれまでをよくよく振り返ってこれは良かったこと、って考えてみるとなにかしらあって、例えば、植物を好きになる、とか園芸を好きになるきっかけを貰えたことはそうだな。

それは、やっぱりそれを大事にしている人の気持ちが自然に周りにあふれていたことをいつしか吸収していたってことが大きい。環境が大事だというのは、本当に、そうだ。

そんなふうに、無意識に伝わってくるものについて気が付いたり言葉に出来るようになってきたのは、だいぶん後になってからだったけど。

スミスってバンドの、アスクって歌に、「自然は言語だー」という一節あるけど、ほんと、植物とか、虫とか、鳥が言葉であることってある。

植物がそこまで好きっていうのじゃなかったけど、だれかが持ってきたかしたポインセチアが、そもそも夏越しが難しいというか、時期が終わりかけると、しぜん具合が悪くなって枯れちゃう植物だと思うけど、葉が少なくなり色違いの葉もなくなって、弱ってしまったことがあった。その頃は、植物を育てるのに慣れていなくて、かまいすぎて、ダメにしてしまった。つまり、具合が悪い時に水とか肥料とかをあげたら、元気になるかなというありがちな勘違いをやったんだった。

毎日、その鉢植えを気にし過ぎていた。あるとき、テントウムシが止まっていて害虫と思って殺してしまったが、よく見ると珍しいナナホシテントウであった。じゃあきっと害はなくて、実は友達だったんじゃないか???などと思うと、すごい落ち込んだ(たいへん昔の話を書いていますw)そしてポインセチアはだんだん弱っていくままに、死んだ。とほほ…

根腐れみたいなことで植物が弱っているとき、元気にしようと思って水とか肥料とかあげたらイケマセン。むしろまずは水を切って乾かしましょう。という基礎を学んだ一件だった…。

それで。ずっと気にしていた植物が、そこまで日々気にかけたり元気になれなれと願った甲斐もなく、終に枯れて無くなったところに、入れ替わりみたいに四葉のクローバーが生えてきてた。急に、其処にいるみたいに生えてたから、驚いた。人生で初めて見た四葉のクローバーだったよ。子供の頃、探したこともあったけど、四葉を見つけたことってなかった、それが一本だけ、思い入れたあげく枯れたポインセチアがいた植木鉢に生えてたら、どうしたってそれは、メッセージというふうに受け取ってしまう。

それ以後、植物っていうものが、何かを知らせることだったり、出来事にシンクロしてくることは度々あった。思い返すといくつか、ある。

ポインセチアの一件は、なんとも悲しい結果に一筋の細い光が差しました、といったような話でいいとも悪いとも云えなくてアレだが。また別の日、なにかその日いいことが起きるのをわかってたみたいに植物が知らせてくれたことがあったのを、思い出す。

だけどそういったことも、なんやかやせわしない日常に紛れると、霞んで見えなくなったりしてしまうし、めったに思い出さないわけだけど、本当にあったことだった。考えると、常に嫌なことを思い出して気分悪くなったりモチベーション下がったりするより、そういう、ちょっと部屋が明るくなったような気がしたようなことを毎日思い出してるほうが、いいものだな。当たり前だけど。だって毎日考えることって、自分で選ぶんだし?

美術とかアートとかいうものは、いくらだって言葉にできるけど、でも、言葉ではない、ってことがやっぱり、いい。すごい困っているときとか、苦しいことがあるときに、でも決してそれだけではない、助け舟みたいなもの、出会えると思う。出会えているのだと思う。それがアートだったことも、何度かあった。植物や鳥ほどまで洗練されてはいないかもしれないが、表現がノイズを全部消し去って、なんとも純粋な驚きをくれることがある。

こういうこと書くのも、まだ、よくわかってなくてナンだけど、ノートをやっててわりとしばしば、「何者かになる」という表現を見かけて結構気になるんだけど、それってそんなに、なんていうか、価値を置かないといけないことなのかな…

自分も、そういうことを考えたことって、絶対あるのだけど、なんだか、そんなことを考えたのが昔すぎることに加えてそれからの長い間に、いろいろ転んだり、頭をバシバシ叩かれ続けるようなこととかが、数えきれないくらい重なって、結果、麻痺しちゃったのかもしれないんだけど、「何者か」って言葉って、それって本末転倒な概念じゃないのかなあっていうか、そこにそんなに囚われて苦しむ必要ってあるのかなあって。それが、一番先に来ることなのかな。

「そんなことない」って言われたら、そうだな、アホが言ってるんだと思って流してくれていいってほんとに思うんだけど。それに、「何者か」であるってことが、大事なことじゃないわけではないと思うんだけど。「何者か」であるメリットってすごいあると、思うから。(それで喜んでくれる誰かがいるなら、それで生きるか死ぬかが決まるというなら、ぜひなりたいものだよね、「何者か」に。きっと。)だけど、その言葉見かけるたびに、ん?って思って、ちっとも心に染みこんでこないのは、なんでなんだろう。なんかね。ほんと、いろんな人がしばしば使っているので、もうどこで見かけたんだかわかんない、くらい。

「何者か」、っていう華やかな概念があるのは、一方で面白いことだなとは、思う。私もそれを利用して作文することもあるし、それがウキウキして楽しいってこともあるし。(アンディ・ウォーホルとか、有名アーティストとか巨匠の話とかもまだいっぱい書きたいし)だけど、何者でもない誰かの庭が、楽園じゃないってこともなくて、これは、自分のことを比喩で言ってるとかではありませんw、念のため。もちろん自分にだって誰にだって、楽園の存在はあり得るわけなんだけど、さんざん美術展とかギャラリーがどうとか書いてきておいてなんだけど、そういうアートの場じゃないところに、もっと感動したり大事なことがあったということを、見つけたこともあった。(*でもその楽園って、楽園だけあって、結局そこにはいられなかったけれど。)

だけど再度考えて、(現代)アートのいいところって、哲学の入る余地が、そういう例外をどこまでも内包していける表現ってことじゃないかと思っていて、だから意識していないけど、アートから受けるのと同じ感動を与える存在って、そのように意識してないところにもよく起きているというか、見つけられる。

と、いうことで、まとまってないかもしれないけど、このへんにしたい。またあとで書き足すかもしれない。それはどの記事でも、そうなんだけどw

(*思う、その都度その都度言い切ることも大事だしとても力強いと思うし、それはそれできっと潔かったり鮮やかだったりいろいろ、いいと思うけど、あえて言い切らないということも、それはそれで選択であり、態度なんだと思う。例えばそこで言い切って意味を固めてしまうより、なにか違う、見つけたいことがあるのかもしれない、とか。例えば)

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