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創作沼の底の話

沼と私の関係については、少しお分かり頂けただろうか。
まだまだ、なぜカマルグ湿地帯?の疑問は続いている事だろう。
それを説明するために、必要な話をしなければならない。

大学を卒業して、そのままアルバイトを続けながら制作を続ける気でいた。しかし、受験する時にも、美大に行きたいなら、現役合格が条件という
現実的な両親の説得で、印刷会社に就職。
面白い大人たちに囲まれ、厳しくも楽しい社会人生活だったが、それも束の間、やっぱり制作をどうしても続けたくて、会社は1年半足らずで退社した。親からすれば、困った娘だ。
私の性格は、頑固で芯のあるタイプでは無いと思うし、人間関係でもあまり波風を立てたくないのだが、殊に絵を描く人になりたい、自分の生き方は自分で選びたいという点に関して異常に頑なだった。

社会人生活はわずかな期間だったが、少しだけ貯金ができたので、実家の近くの沼の見える小さなマンションの一室を借り、アトリエにして絵を描いた。あの小さなお城が懐かしい。

数ヶ月は仕事もせず、制作に専念して、画家の登竜門とも呼ばれるS賞に大作を応募し、入選した。
代官山で展示され、賞のおかげで銀座のコマーシャルギャラリーで展示の機会も得た。

その後、最初の個展をした時に、観にきてくれた美大の時の同級生が、ギャラリーの近くにたまたま住んでいて、その彼女とルームシェアをすることに。地元のアトリエを解約して、実家を出た。

しかし、自活しながら制作するのは大変だった。
お絵描き教室の先生と美術館のカフェのアルバイトを掛け持ちして
アパートの小さな部屋で、コンペに出す80号の大作を描いたりしていた。

23歳から2年間程はそんな生活だった。
26歳の時に、母校の先輩アーティストが共同運営するギャラリーで
2度目のちゃんとした個展をした。
2011年4月、大震災のすぐ後だった。世の中は非常事態で今まで感じたことのないムードに包まれていた。私もこの先の日本はどうなってしまうのかと心のどこかがいつも重苦しかった。

この頃を今振り返って見ると、よく考えてみれば、絵を描く環境として
いかがなものだったかと思う。
光も色も筆跡も、何もちゃんと見えていなかった。
(大変基本的なことだが、私がそのことをちゃんと理解したのは恐ろしくもごく最近の話だ。)

その頃の私の作品は、どんどん自己の内面を、小さなライトを照らして
闇雲に奥へ奥へと進んでいくような感じで作られていた。
迷走状態。でも、作るためのパワーは今の倍くらいあったと思う。
色合いやテーマも暗いものを好んだ。
2008年の初個展から、展示は続けていたし、絵を続けることは
自分の生活の中心であり続けた。
でもそれと同時に、せっかく自分を採用してくれた会社も辞めてしまったし、生きるためのお金も稼がなくてはいけない。
やり続けなければ、自分の存在理由は無いと言う切迫感があった。
制作自体に当てられる時間は週に2日程度で思う存分と言うわけにはいかない。楽しいから続けていると言うよりは、懸命にやり続けていた。

優雅に泳ぐ白鳥は、水面の下ではバタバタと絶えず足を動かし続けなければならない。私はこの表現があまり好きではない。私は白鳥の美しいところだけが好きだ。

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