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♪創作大賞参加恋愛小説 【これでおあいこ・サヨナラが行ったり来たり】

<あらすじ>
 
新中学1年生が心躍らせ机を並べる新学期の教室内、なぜか和宏の隣だけが空席続き。
ようやく現れた転入生は、アイドル顔負けの美しさが神秘的な美少女、野崎香織。
手配が間に合わなかった教科書を見せてあげるなど、連日鼻の下が伸びまくる思春期男子の中学生活は、これぞ薔薇色のスタートに。
そんなある日、香織がうっかり持ち帰ってしまった自身の教科書の欄外に、彼女の筆跡で綴られた意味深なメッセージを見つけた和宏。
どう読み返してみても愛の告白としか思えないその文面に、頭も心も完全なるパニック状態。
恋文には恋文で応えねばと懸命に書き上げた返事を手渡すも、そこから事態は思わぬ展開に・・・・・・
 
(※あらすじ総文字数=286)
 
 
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【これでおあいこ・サヨナラが行ったり来たり】

  
 
1-1. 新学期初日から欠席続きの隣席 
 
教室の窓越しの木々の桜色が、一気に緑へと彩を変え急ぐ新学期。
新入生の和宏の隣席は、始業式から数日が経過するも、いまだ空席のまま。
自分だけ右隣りが広い環境に、幾分の居心地の悪さが隠せなかった。
 
早くも懐かしく感じられ始めた小学校時代、密かに思いを寄せるクラスのマドンナと隣同士になれた奇跡に戸惑い乱れた心臓の鼓動が、ふと思い出された。
『ふたりでひとつ』の木製長机の上で、
「真ん中越えたらダメだよ」
「空中だったらセーフだろ」
衝立の役割を果たす彼女の赤いランドセルの、断じてニオイではなく、断固『にほひ』もしくは『かほり』。
授業中それを不自然に確かめていた、今思い出せばただただ赤面の、甘酸っぱい記憶が蘇った。
 
「ひと足遅れの転入生がそこに座るから、色々教えてあげるんだぞ」 
担任の男性教師からこのように告げられていたものの、待ち人は姿を現さぬまま。
どこかしら拍子抜けした感が否めぬまま、中学1年生4月2週目の土曜日を、和宏は間もなく終えようとしていた。
 
セーラー服が眩しいばかりの意中のあの娘は、クラス編成なる冷徹な儀式の結果、同じ鉄筋校舎の階上の教室へと。
男子児童ならぬ学生として、休み時間になれば男同士でのボール遊びに興じねばならないのが、暗黙の了解以上の残酷な掟。
彼女の教室へと続く階段があまりに遠く感じられる現実は、齢十三目前の和宏にとって、ただただ理不尽極まりなかった。
 
時は1975年。
世の中はロンドンブーツなる男性用ハイヒールの流行で、国民の平均身長が若者世代と屋外限定で10センチばかり高くなっていた、そんな時代だった。 
  
 
1-2. ファースト・コミュニケーション 
 
マンモス校内に溢れるセーラー服ではない、見慣れぬ濃紺のブレザーの制服を身に纏ったショートカットが、右隣りから小声で和宏に囁きかけた。
「国語の教科書だけが間に合わなかったから、一緒に見せてもらっていいですか?」
この一言から、時のアイドル雑誌に載っていても違和感のない彼女の端正な横顔の確認作業を、和宏は鋭意遂行するばかり。
果てはのぼせ上ってしまったのか、うっかり彼女が自身のカバンに教科書をしまい込んでしまったことすら、まったく気づかぬまま。
「一緒に見せて……」
「いっしょ……」
遠慮がちな声が頭の中でリフレインを続ける次の休み時間、和宏は当然のように、悪友たちによって吊るし上げの刑に処されることに。
 
「うるさいなあ」
面倒臭そうな素振りであしらうこの一言も、鼻の下が伸びたままの顔面フニャフニャ状態で発すれば、これぞ火に油を注ぐ行為。
そんな教室内の一角では女子グループの派閥争いが、早くも火花を散らしていた。
各グループのリーダー格が一斉に彼女に歩み寄り、和宏のいる場所からは、愛しいその姿が確かめられない状況と化していた。
  
 
1-3. 欄外に綴られていたのは? 
 
「昨日はごめんなさい。持って帰っちゃって。宿題できなくて困らなかった?」 
前日の『です・ます調』のよそよそしさはなく、半分だけ同級生モードの彼女が、和宏に小声で囁いた。
最初から宿題などアウトオブ眼中の和宏は、彼女の表情と仕草と口調に、瞬時にしどろもどろならぬデレデレ状態。
もちろんこの時点でクラス全体は阿吽の呼吸から、注目度急上昇の2人の観察遂行で一致していた。
 
ところが周囲からの視線も、鈍感なのか舞い上がっているのか我関せずの和宏。
そんな有頂天少年が一気に悩める思春期男子のトップランナーへと躍り出たのは、同日午後の国語の授業中だった。
 
「これって……いきなりの告白?」
確かに初対面時からどこか大人びた、不思議な雰囲気を身に纏った女の子だった。
それでもたった1日隣の席同士で過ごしただけで、いきなりの積極的すぎるこのアプローチ。
和宏の胸の鼓動は高まる一方で、口から心臓が飛び出さんばかりに。
小学生時代にも告白チョコや女友だち経由で、思いを伝えられた経験はチラホラも、この急展開に心身パニック状態へと。
 
そんな大いなる動揺を届けてくれた当人は、端正な横顔をこちらに向けてくれるでもなく、先生の授業に耳を傾けている。
一刻も早く真意を確かめるべく休み時間にタイミングを伺うも、ここで厄介な邪魔者が。
男子より頭ひとつ身長が高く、バレー部の期待の星の泉本とその仲間たちが、彼女を一気に確保してしまう繰り返し。
この現実を安易に周囲に悟られてはならないと、精一杯平静を装ってみればそれだけ、不自然な言動が目立ってしまう和宏。
  
 
ごめんなさい そして ありがとう
あなたに会えて 素直になれそう
もしかして 不思議な予感
あなたとわたし 赤い糸 
  
 
真新しい教科書の著者近影に、得意の落書きからの百面相を施す前に第三者の筆跡で綴られた、何とも思わせ振り以上のこの一節。
得体の知れない高揚感に、思わず叫び出しそうだった。
 
終礼と同時に悪友達を振り切るかのように一目散に帰宅から、暗記を通り越してしまうほど、繰り返し読み返し続けた。
「教科書を見せてあげただけにしては、やっぱりあまりに意味深すぎるぞ」
薄いシャープペンシルを用いたのだろうその文字は、同世代の女の子のそれらとは全く違う、少し右肩上がりの達筆。
「文章には行間に本当のメッセージが隠されています」
それまで鼓膜に引っかかったまま脳まで達していなかった、国語担当の女性教師のこんな一言が思い出され、心は決まった。
 
「愛のメッセージには手紙で応えてみるしかなさそうだな」
母親に幾度も咎められながらも、肌色の片耳用イヤホンで隠れて聴き続けている、いつもの深夜ラジオもそっちのけ。
机上の紙と鉛筆との格闘は日付変更線を超えるあたりから、ますます熱を帯びていった。
  
 
1-4. 赤面少年
 
「近藤君、ちょっといいかなァ」
彼女への返事と質問の手紙を手渡した翌々日、泉本に手招きされて廊下に出た和宏は、申し訳なさそうにこう切り出された。
「野崎さんが教科書に書いた『詩』のことなんだけど」
条件反射的に身構えた和宏。
「どうして泉本が知ってるんだ?……そうか、最初に仲良くなったから相談したんだろうな」
超積極的なのかと思えば、やっぱり友だち経由ってあたりは他の同級生と一緒なのだろう。
期待感で崩れ始めた表情をどうにか引き締めつつ、次の言葉を待つ和宏。
 
「あの『詩』はね……」
ウンウン……だから……え?今『詩』って言ったかな?
「授業中ボンヤリしていて自分の教科書のつもりで、お気に入りの詩を書いちゃったんだって」
 
ワンテンポ遅れて自分が彼女に手渡した手紙の文面が蘇るにつれ、人生初の複雑な『羞恥心』ってヤツが、胸の中で暴れ出した。
「余計な思いをさせてしまって、手紙までもらって、どうしていいのかわからなくって、香織結構悩んでいるの。悪いけど無かったことにして、サラリと水に流してあげてもらえるかな?」
「あ、ああ……そういうことだったのか。そりゃそうだよな。ぜ、全然問題無いし、野崎さんにそう伝えておいてよ」
 
『顔から火が出る』『穴があれば入りたい』とは、まさにこの状況なのだろう。
自らが全身全霊を込めて綴った言葉の数々が、次々と走馬灯のように目の前に現れては、大渦潮のように回り続けるばかり。
垂直落下式青春残酷物語の主人公に抜擢されてしまった現実を、どうにか受け止めるべく、知り得る限りの比喩表現を頭の中に探し続けていた。
  
 
いきなりこんな思いを伝えてもらって
正直とまどってるけど すごくうれしいです
お友達より少しだけ近い俺たちから 始めてくれるかな
なんてね 
  
 
今日であればネット検索で、速やかに彼女が綴った詩の全文や作者に辿り着けるに違いなくも、時代は昭和。
目の前に直筆で届けられたメッセージを疑う概念は、中学生だけでなく世の大半の大人達も持ち合わせてはいなかった。
時計の針を逆回しにして世界中を一昨日に戻せないものかと、叶うはずもない現実逃避に、この悲痛な物語の終止符を探し続けていた。
 
どう逆立ちしようと足掻こうと、一気に胸一杯に膨らんでしまった香織への思い。
その成就の可能性を早々に絶たれてしまい、開き直って男子仲間と過ごしてみるも、心ここにあらず。
それにしてもさすがだったのが、クラスだけでなく学年全体の女子のリーダー格的な、泉本の計らい。
この顛末がヒソヒソ話で拡散した気配もなく、ぎこちなかった和宏と香織も、気づけば自然な距離感を取り戻せていた。
 
まだまだ恋に憧れ戸惑う中学1年生。
ほどなく次の季節に合わせるべく詰襟学生服を脱ぎ、セーラー服も白の半袖姿へと。 
  
 
1-5. 行っちまえよ
 
梅雨の長雨で平均気温を大きく下回り、肌寒さが誤魔化し切れない6月下旬の月曜の朝。
1限目の担任の数学の授業前、クラス内に動揺が走った。
「ええっ!?」
和宏を始めクラス全員が思わず声を上げた教師からの報告は、あくまで淡々とした口調だった。
「突然ですがご家族の事情で、短い期間で野崎香織さんは転校することになりました。クラスの仲間とのお別れの時間を準備できず、先生も申し訳なく思っています」
 
充満する重苦しい空気を振り払うかのように、担任は強引に数学の授業を始めてしまった。
黒板に白墨や木製の分度器が当たる音がコツコツと響く教室内、誰もがぎこちなさを隠し切れず上の空。
「そういえば先週末、机の中の教科書とかを普段より大きなカバンに入れて、持って帰っていたよな」
午後からの軽音楽部の練習に急ぐ和宏は、その日に限って香織に一言もかけぬまま、一目散に教室を飛び出してしまっていた。
 
「クラシックは崇高も、軽音楽はバイクと一緒で不良のやることだ」
風紀委員を勝手に気取る年配教師の時代錯誤な決めつけが幅を効かせるなか、若い音楽教師が音頭を取る形で新規開設された、このクラブ活動。
学校内では正規のものとは認められておらず同好会的な扱いも、運動が苦手で音楽好きの和宏にとって、参加は当然の選択だった。
  
 
こっちこそ早合点してゴメンな そして ありがとう
野崎さんとの数ヵ月間 今なら素直に振り返られるよ
もしかせずとも やっぱり僕は片思いピエロ
それでよかったんだよね 
  
 
終ぞ香織自身からは真意を聞かせてもらえないまま、今も消しゴムを当てることのできない、彼女の筆跡。
印刷された本文のどの部分よりも繰り返し目で追い続けるうち、わずかに擦れた筆運びの癖までもが記憶に刻まれていた。
この期に及んで真似てみたつもりの、詩歌でも川柳でも兵庫でもない未練たらしいこの独り言が、和宏の偽らざる気持ちだった。
 
「近藤、このあとちょっと職員室まで」
放課後部室へ急ごうとするのを制された理由はやはり、授業中上の空で再三注意された続きのお説教だろう。
ところが仕方なく足を運んだ和宏を待っていたのは、白い1通の封書だった。
「野崎さんから預かっていたんだ。確かに渡したぞ。それから先生があれこれ指示することじゃないけど、みんなには内緒にしておくことが、彼女とご家族のご希望だろうな」
それだけ告げると一瞬だけ微笑みを浮かべ、背中をひとつポン!と押して退室を促された和宏。
担任教師に無言で一礼からひと呼吸置き、全身に力を込めて踵を返した。
  
 
最後まで教科書の落書きのこと、キチンと謝らなくってごめんなさい。
だけどあの時もらった手紙を読んで、近藤君の自信過剰ぶりに、正直引いちゃいました。
出会ってすぐに告白なんて、そんな軽い転校生だと思われていたのは、少しショックだったかな?
短い間だったけど仲良くしてくれたお礼に、女子として忠告しておくね。
「自己評価が高すぎると、この先も彼女なんてできないよ!」
 
ごめんなさい そして ありがとう
赤い糸でつながった あなたに会えて 素直に書けました 
 
じゃあ元気でね。
 
  
「これだよ。やっぱり彼女は小悪魔だったんだ。俺の気持ちに気づいていて、結局最後もこれだよ。どうせ次の転校先でも、純粋な男子の犠牲者が……」
恋愛経験も人生経験も未熟な中学男子13歳。
それまで精一杯背伸びして見聞きしていた恋愛小説やヒット曲の歌詞の世界など、持ち得る限りのつたない知識を総動員。
自身を地球上で最も可哀想な悲劇の主人公と重ね合わせることで、すべてを『無かったこと』にしょうと、独り足掻き続けた。
 
時代を問わず世の人々が『人間を強くする』と声を揃える、初恋が実らぬ現実。
されど男は誰もが、涙の終章を引き摺る生き物。
1975年初夏手前のこの一出来事以来、和宏の心の中から『野崎香織』という存在が姿を消すことは・・・・・・
  

 
2-1. 男子十五の春・新生活は辛生活?

「近藤ォ!どうした!?しっかり続けろ!」
白い柔道着に黒帯の胸元が赤銅色の鉄板のような指導教員の森の、怒声というよりは幾分の苦笑いが混じった叱責が、この日も道場に響き渡った。
週に4限の男子の体育の授業のうち、柔道の時間だけはあらゆる手段を講じてでも回避したい和宏は、青畳の上でうつ伏せ状態。
他の同級生がスイスイもしくはどうにかこなす、準備運動に続いての腕立て伏せ30回。
授業開始早々のこれがクリアできず途中で潰れる繰り返しを、新学期から数え続けていた。
 
180センチ超の痩身ながら、周囲が呆れるのにも飽きる程の運動音痴プラス、基礎体力の謙虚さ。
毎回森の方が痺れを切らし、結局お咎めもなく授業が進められるのが、すでにお約束と化しつつあった。
和宏のぎこちない受け身の姿勢に失笑が集まるだけでなく、森の授業は本来の柔道着着用の作法に従い、全員下着禁止。
素肌の敏感な部分に直接触れる柔道着の気持ち悪さも手伝い、剛史にとってはこれぞ地獄の50分間。
気象台が梅雨入り宣言したらしいこの日、各自がロッカーに入れっぱなしの柔道着と汗が放つ臭気は、いずれも右肩上がり。
潔癖症傾向が否めぬ和宏にとっては、これまたひたすら辛いばかりだった。
 
「それにしても、これじゃあんまりにも話が違いすぎだよ」
高校入試に臨むに際し、この学校を迷わず選んだ1番の理由、それは周囲が語り伝える校風と、この学校の歴史に他ならなかった。
旧制高等学校時代は名門公立女子高で、戦後共学となるも生徒会長は歴代女子生徒と、水面下に根強く踏襲され続けている、女性上位の校風。
同時にいわゆる不良と称される人物がほとんど見当たらない、お坊ちゃんお嬢ちゃん学校との評判。
しかもプール設備がなく、泳げない和宏にとっては色白華奢な裸と哀れな姿を晒さずに済む、これぞ天国のような環境のはずだった。
 
ところがいざ高校生活がスタートしてみれば、柔道なる想定外の天敵だけでなく、来夏前には新しいプールが完成してしまう、これぞ二重苦状態。
結果授業中が最も安心できるという、教師陣からすればこれ幸いな生徒の近藤和宏。
そんな彼にとって気になる存在が、その胸の中で日々その大きさを増し続けていた。
 
これだけでも十分以上に、新生活のワクワク感を招かざる苦痛が覆い隠している状況。
ところがこうした理解不能に限って、当事者の想像を遙かに上回るもの。
「何がどうなっているんだ・・・・・・とにかくどうにかしてくれよ!」
神様の気まぐれにせよ、さすがに度が過ぎた現実に、和宏は日々胸をかき乱されていた。


2-2. 不思議ちゃんと囁かれていたのは
 
その日の昼休みも、彼女は他の誰かに誘われるでもなく、あくまでマイペース。
独り自身の座席で菓子パンを口にした後、取り出した文庫本に視線を落としていた。
日本人形と西洋のアンティックドールをブレンドしたような顔立ち。
男子連中が大騒ぎするアイドルとアニメの世界のヒロインをブレンドしたような、神秘的な透明感が美しく感じられた。
 
すでに複数名が積極的にアプローチを試みていたものの、暖簾に腕押しでも馬耳東風でもなく、終ぞ会話を弾ませることができないままで玉砕の連続。
時にヤケクソからだろうか、わざと彼女に聞こえる距離感で、
「ありゃお話にならないよ。やめとけやめとけ」
そんな暴言に異論を挟むクラスメートは見当たらず。
だからと和宏には彼女を庇う以前に、3年前とは明らかに違う、彼女に対する説明のつかない感情に戸惑うばかり。
 
クラスメートになってそろそろ3ヶ月が経過しようとするこの季節。
にもかかわらず、まだ一言も交わしていないばかりか、視線が合った記憶すら見当たらなかった。
 
野崎香織。
偶然の同姓同名ではなく、紛れもなくあの日突然姿を消した、野崎香織。
 
転校その他で別れ別れになった旧友と高校で再会するケースは、それほどめずらしくもない展開。
されど小説もしくは映画の台本だとしても、かなり以上に強引なこの現実。
露骨に周囲を拒絶しているわけではないにせよ、どこか近づくことを躊躇させられる、摩訶不思議なオーラを放っていた。
 
私語を交わすこともなく、彼女の声を確かめられるのは、授業中教師に指名された場面のみ。
「一応日本語は話せるみたいだぞ」
玉砕した男性陣は声を潜めて囁く彼女は、和宏の知るその人とは完全な別人格。
その違いは大袈裟でなく『変貌』レベルだった。
 
「ここで彼女のナイトを気取れば、一気に彼氏に昇格できるかも?」
そんな下心が芽生えるも、その可能性が限りなくゼロ。
なによりこうした賭けが裏目に出てしまい、クラス内での居場所を失ってしまうリスクが頭をよぎるばかり。
「俺はなんていくじなしなんだろう・・・・・・」
心の葛藤を悟られぬよう、それでも気づけば視線の先に香織の姿を探している自分が歯痒かった。
 
 あと少しすれば学期末試験が始まり、続いて夏休みに突入のこの時期。
和宏にとっての学校生活は、取り立てて心躍ることもなく、変わらぬ毎日を淡々と数えていた。
そんな7月目前の曇りのち雨の空の下、手元に傘のない帰宅部男子の和宏は、独り帰路に変化を持たせてみることにした。

 
2-3. 数年ぶりの会話
 
普段なら電車通学のほぼ全生徒が疑いなく往復する、アーケード街を抜けて最寄り駅へと続くメインの通学路を回避。
馴染み薄い住宅街を縫うように、歩を進めてみた。
気楽なひとりぼっちの通学路を寂しいと感じることもなく、線路沿いに続く方向を見定めながら、黙々と歩く。
長身相応の長い脚がスタスタと歩を進めれば、友人同士でお喋りや悪ふざけに忙しい同級生の2倍近い速度に達していた。
 
ジグザグに続く幾つ目かの角を勘を頼りに曲がった直後、予期せぬ人物の後ろ姿を視界内に捉えた和宏。
条件反射的に思わず声をかけていた。
「野崎さん!?」
一瞬置いて妙な後悔に戸惑うも、その背中は振り返る気配すら見せぬまま。
いつもの空気感を纏った後ろ姿は、まるでわずかに中空に浮かんでいるかのようだった。
こうなれば踵を返すのも不自然だと、斜め後ろからもう1度声をかけてみた。
 
 「あっ」
あくまで彼女独自の体感時間の中、綺麗な猫のような瞳を大きく見開くも、視線は微妙に明後日の方向を捉えたまま。
互いが次の一言を探し出せぬ中、彼女の細く白い左指が持つ白い紙が五線譜だと気づいた。
「それって、が、楽譜?」
「はい・・・・・・気づかなくってごめんなさい」
それが赤色なのかどうかは微妙なれども、ふたりを繋ぐ糸ならぬ共通の話題が、思わぬ形で見つかった瞬間だった。
 
決して英才教育を受けたわけでもなく、好きが嵩じて続けているピアノの腕前。
和宏自身がそのことを自慢気に口外することはなく、この学校でそのことを知る者はいなかった。
なによりここで唯一の特技がピアノだと知れ渡れば、それこそ無用な強い逆風が届くのではと、いわゆる保身が勝っていた。
中学時代のように音楽系のクラブに入部するでもなく、淡々と登下校を数える帰宅部を、このまま続けるつもりだった。
 
どこか以上によそよそしく、感情を忘れたかのように他人行儀な香織の口調。
それでも3年振りの会話が叶った奇跡未満に、和宏は胸の高鳴りを抑えきれずにいた。 
ぎこちなさが隠し切れぬ言葉のやりとりが一段落したことで、ようやく微かな笑顔を浮かべた香織。
2人が別々に歩んだ3年間の時計が、たとえ僅かだけだったにせよ、確かに巻き戻っていた。
 
翌日から決して教室内で誘い合うでもなく、阿吽の呼吸と言うには不自然な距離感で、ふたりだけの裏道通学路に隠れる流れが日課となった。
もっとも香織が和宏を待つ素振りは微塵もなく、和宏が懸命にタイミングを見極める繰り返し。
彼女が裏道に消えたところから一呼吸置いて一気に追いつく、まるで芸能人の密会のような、これぞ逢瀬?
当然クラスメートが見逃すはずもなく、さらには期末試験間近の部活自粛期間。
女性週刊誌取材班よろしく、複数名の尾行部隊が出動から情報共有を数えることに。
 
一方の和宏は、どうにか電話番号の交換に成功するも、青写真通りに事は進まなかった。
何度かけても不在、もしくは彼女の母親が一応取り次いでくれるも、本人は受話器口に出てきてはくれない繰り返し。
この打率ならぬ通話率、プロ野球の選手であれば、二軍落ちどころか契約解除の危機レベル。
俺の彼女などとは口が裂けても言えずとも、この高校で再会が叶った、大切な女友だち。
和宏は音楽以外で香織が反応してくれそうな、別の話題の手探りに窮していた。
 
「この調子のまま夏休みに突入すれば、一方的に電話をかけ続けるばかりの夏が去ってしまうぞ」
自宅での試験勉強中も、思案するのは香織のことばかり。
せめて写真を手に入れたいと願いつつも、そんな思いを口にする勇気も、隠し撮りなる行為にも到底及べず、ここでも大きな溜息ひとつ。
それと同時に机に突っ伏せば勢いがつきすぎ、激しく前頭部を打ちつけてしまう始末。
 
これでは試験の成績など期待できるはずもなく、ましてや席次がどうのこうのなど論外の極み。
散々な点数が記入された赤文字が並ぶ成績表が、高校1年生1学期終了を教えていた。
「下記の教科の夏休み補講出席を命じる」
終業式当日の教室で選ばれし者だけに淡々と手渡されるスペシャルな招待状が、ご丁寧に添えられていた。
 
1977年7月下旬。
明日から正式に夏休み。
表面上は嬉しいけれど、心密かに思う彼や彼女と会えなくなってしまう、胸中複雑でもある長期休み。
世の中にはまだ、スマホや携帯どころかポケベルすら普及していなかった、そんな時代のこの日は水曜日。
  
 
2-4. 急展開?
 
運動部の過酷な練習を連想させる擦れた号令や掛け声が、窓の外から聞こえてくる。
どうやら梅雨が明けていたらしいと、お得意の過去完了推定形を用いた気象台の発表を裏付ける、真っ青な空に白い積み雲。
こうしたこれぞ青春的な解放感とは真逆の教室内では、一学期の成績が芳しくない生徒たちを対象とした、補習授業の真っ最中。
そんな中学時代とはまったく違う教育現場、和宏には悲壮感の欠片も見られぬどころか、むしろ嬉々とした表情が隠せなかった。
 
一方で他の受講生にとっても不思議だったのが、そこに野崎香織の姿があることだった。
授業態度も真面目で教師の問いかけにも淡々と正解を答えるその姿から、成績優秀と周知されていただけに、これは意外だった。
そんな和宏の顔相をフニャフニャにしている唯一無二の存在は、通常の授業風景と何ら変わらず、黙々とノートを執り続けていた。
 
午前中で補講が終われば他のクラスメートの視線も気にせず、並んでメインの通学路を帰路に選んでも大丈夫であろう、夏休み期間中。
それでもどちらからともなく向かうのはやはり、互いにとって安心できるいつものルート。
このまま脱線して喫茶店やファミレスに立ち寄ることも、駅のベンチで話し込むこともなかった。
香織が下車する駅まで和宏が乗り越しては手を振る、普段通りのふたりの毎日。
 
会話のキャッチボールこそ成立の兆しが感じられるも、電車を降りて去って行く彼女の素振りはやはり、どこか素っ気なかった。
お別れの可愛い声を届けてくれることもなく、扉が開くのを待ち切れぬようにホームに降り立つ彼女。
そこから振り返りもせず、足早に改札出口へと消えていく後ろ姿。
 
普通電車しか停車しない小さな駅からの乗り換えでは、無賃乗車が露呈しかねないと、さらに2駅先の急行停車駅で折り返す繰り返し。
望めども叶わぬと諦めかけていた、香織と毎日会える夏休み。
それが現実となるも、いまだ告白なる二文字と向き合う勇気に辿り着けないもどかしさ。
現状で十分贅沢だと重々自覚しつつも、和宏は得体の知れない苛立ちと焦りを覚え始めていた。
  
 
2-5. 悲願の
 
「珈琲の『こ』は恋の『こ』、コーヒーの『ヒー』は『ひひひ』・・・・・・」
脳細胞の中を暴れ回る、もしも第三者に悟られたなら赤面どころの話では済まされない、超弩級浮かれモードの和宏。
ようやく雑談の中から見出せた共通の話題となるキーワード、それが珈琲だった。
 
「ずっと前に家族と立ち寄った、お洒落な珈琲専門店のカプチーノの写真なんです」
こまめに整理整頓されているのだろう。
素早く取り出しお披露目してくれた、白く上品なカップの中にミルクで描かれたパンダの顔を目にした瞬間、和宏は神様の降臨を確信していた。
「実は俺も珈琲には結構うるさいんだ。でもこの店は知らなかったな……今度連れて行ってくれないかな?」
咄嗟の切り返しも我ながら完璧との手応えから、香織の返答を待つ数秒間がどれほど長く感じられたことか。
 
「いいですよ」
これイコール人生初のデートの約束確定と、昭和の青春ドラマの男子高校生同様、大声を上げて夕陽に向かって駆け出したくなる高揚感。
「じ、じゃあ、い、いつにしようか?お、俺、野崎さんの都合に合わせるから」
うわずった声でそう告げてしまった直後の後悔から、再び軌道修正すべく、脳細胞をトップギアでフル稼働。
ここで彼女主導なら立ち消え必至と慌てふためく和宏の隣で、香織は相変わらず微妙な方向に視線を送りつつ、次の一言を待ってくれていた。
  
 
2-6. カプチーノ
 
カウンターとテーブル席が数席だけ。
磨き上げられたガラス越しの風景が町の歴史を伝えるその店は、高校生カップルにはいささか敷居が高く感じられる雰囲気だった。
人生初デートなる大一番に臨む緊張感からだろうか、和宏は香織に三歩下がらずとも、微妙に斜め後ろの立ち位置を変えられずにいた。
それは無数の男性が終ぞスマートには実践できなかったレディ・ファーストと、どこか似ているような、あるいは違うような。
 
「カプチーノって1杯400円もするのか」
通常の喫茶店のホットコーヒーが200円台だった当時、まずはこの金額に腰が退けてしまいそうに。
案内されたカウンター席を挟んで立っているのは、白シャツと黒服のコントラストが大人びて感じられた、小柄な男性スタッフだった。
「カプチーノ……野崎さんも一緒でいい?」
そんな可愛いカップルに、周囲の大人たちが微笑みながらも興味深く視線をチラチラ届けていた。
 
当然周囲に視線を配る余裕すら皆無の大緊張青年は、肩に力が入りすぎてカチンコチン。
不用意にお喋りしては叱られるかもと、黙って固まる若き初訪客。
そんな少年の精神状態を見越したスタッフが、細やかな心遣いを届けてくれた。
いざミルクを用いた表面張力芸術お披露目のタイミングで、
「なにかご希望はありますか?」
俄かに問いかけの意味がわからず、慌てて香織とは反対側の見知らぬ客に視線を送りかけ、さらに大慌てで首を振り切りイテテテテ。
それでも彼女の視線はいつも通りに、微妙な方向をぼんやり捉えるばかり。
 
「どんな絵を描きましょうか?」
絶妙の助け舟に、どうにか絞り出した一言はやはりの、
「お、お任せします」
ここからわずか数秒。
目の前の匠の技は、直径十センチほどの真円形の琥珀色のキャンバスに、絶妙の濃淡で微笑むクマさんの笑顔を描き切っていた。
続いて香織には、一輪の可愛らしい花の絵を。
「うわあ・・・・・・」
そのあまりに鮮やかな手さばきに、喉元でどうにか感嘆の声をとどめたつもりが、今度はむせ返ってしまいゲホンゲホン。
 
この日を境にこの店のカウンターには、落ち着いた常連客の平均年齢を引き下げる効果抜群の、若き恋人同士と映る2人の姿が。
コーヒーカップの表面張力の魔術師とのやりとりも、次第に自然な雰囲気へと。
そんな光景を横目にするかしないか、香織はやはりマイペース。
無表情と微笑みとキョトンの間の美しい表情で、半分だけ自分の世界に身を委ねるかのように、カップを口元へと運んでいた。
 
ライオン・パンダ・チューリップ……一体何種類描けるのだろうか?
 
他の来客と絶対に重複しない作品を、これぞスタイリッシュと称したい身のこなしで、淡々と描き続ける魔法使い。
そしてこの目的地以外には、一切興味が無いらしい香織。
一目散にこの店を目指し、しばしの時を過ごしたなら、真っ直ぐに家に帰りたがった。
なんとも不自然な一緒の時間だったが、それで十分だった。
「2学期になっても、変わらず仲の良いクラスメートで居続けるために……」
このとき和宏の中には、誰にも口外しないと決めたある理由から、自分なりに彼女を守り続ける決意が芽生えていた。
  
 
2-7. 夏の終わり
 
「今日はあの店のマスターをギャフン!と言わせてやろうと思ってるんだ」
すでに通い慣れた私鉄急行の車内。
車窓越しに目に飛び込む風景を瞬時に確かめれば、あと何分で目的の駅に到着するのか、ニアピン賞で察せられるようになっていた。
「急に驚かしたりしちゃダメですよ。カップとか落としてしまったら、ご迷惑だけでは済まされないし……」
相変わらずの微妙な丁寧語と距離感の、彼女らしい無感情な口調での答えもまた想定内。 
 
突然目の前に確かめた後ろ姿に、思い切って声をかけて以来数ヵ月。
他の数々の男子生徒が白旗を掲げた香織との言葉のキャッチボールに、戸惑い窮することはなくなっていた。
「そんな失礼なことはしないから安心してよ。まあ見ていてごらん。今日は絶対に楽しく面白い時間にしてみせるからさ」
ゆっくりとした口調でハッキリとそう伝えると、いつしか和宏が先頭の立ち位置から、ふたり肩を並べて歩く姿も自然となっていた。
 
時は8月下旬。
唯一ふたりの指先の距離だけが、和宏にはじれったかった。
 
「アシンメトリ。左右非対称の何かを描いていただけますか?」
このリクエストに対し、あくまで柔和な表情を崩さぬ黒服姿を目の前に、和宏は勝利を確信していた。
これまで彼が見せてくれた超一流のテクニックはいずれも、カップの中央を軸に、左右対称に広がる流れで描く手順オンリー。
ならばこの要求には応えられないだろうとの、大人への挑戦状と遊びごころ。
そしてマンネリ化が否めぬデートの繰り返しへの、自分なりの起爆剤のつもりだった。
 
「かしこまりました」
いつもと変わらぬ落ち着いた口調から、そう簡単には勝てぬぞと暗に知らしめるかのように、プロの技術の引き出しを静かに開いた彼。
和宏のカプチーノには月桂樹の一葉に小鳥、香織には三日月ときらめく星と雲が描かれていた。
「……」
目の前の無言の表情が、まだまだ若いな、と語りかけているようだった。
 
「くっそおー!絶対に勝ったと思ったのにな」
半分本気、半分大袈裟な素振りで悔しがる和宏を、駄々っ子を見守る母親のような表情で、めずらしく諭し始めた香織。
「だから相手を困らせるようなことはダメですよ。それに私は……」
「え?」
彼女が自らこんなふうに、自分語りや希望を口にした記憶がなかっただけに、思わず身構えてしまった。
これが災いしたのか香織は口を閉ざしてしまい、その日は帰路一言も交わさぬまま、地元の駅まで電車に揺られることに。
 
「次に会えるのは新学期の教室だね。じゃあね」
「はい」
別れ際にようやく一言だけの返事を残し、自動改札口へと向かう人の流れの中へと消えていった。
それまでとは違って最後に1度だけ振り向いた香織だったが、いつものことだと和宏はこの時すでに、彼女から視線を外してしまっていた。
 
「さすがにそろそろ宿題やらなきゃ」
この日の彼女のイレギュラーな立ち振る舞いを見逃がしてしまった痛恨のミスも、この時点では単なる油断にすぎなかった。
 
  
2-8. 失恋珈琲店
 
9月第1週目の日曜日、重たいガラスの扉を開くと、そこには普段とは違う不自然な光景が互いを待っていた。
カウンター内の彼の利き腕には大きなギブスが。
「ど、どうされたのですか?」
心配そうに尋ねた和宏に、なんとも申し訳なさそうな表情と口調で、
「自分の不注意で腕を折ってしまって。しばらくはカプチーノの絵をお届けできず、お客さまになんとお詫びも申し上げてよいのやら……」
いつしか一応の指定席となった椅子に腰かけたタイミングで、今度はマスターが単刀直入に、
「今日はおひとりですか?」
 
新学期の教室に野崎香織の姿はなく、担任の教師からも何の説明もなく、高校1年生の2学期が淡々と時を刻み始めていた。
クラスメートは和宏がその輪の中に加わらぬように通信網を介し、あれこれ噂話を交わしているようだった。
そしてこうした状況もまた、高等学校という空間においては特別なことではなく、常識であり礼儀であり、ルールなのだろう。
名簿からも最初から存在していなかったかのように、彼女の氏名が消えてしまった。
やがてクラスの誰もが、そんな小さなサヨナラが生じた事実さえ、記憶の彼方へと。
 
自ら女子トークの輪の中に入れない自身に悩み戸惑い、寂しさらしき感情を1度だけ仄めかしていた香織。
複数のクラスメートから、時に露骨にアルファベット二文字で揶揄されても、我関せずを必死に演じ続けていたのだろう。
そんな彼女が自分だけに見せてくれた、控え目な喜怒哀楽。
「お父さんとお母さんが言ってました。自分たちが年老いて天国へ誘われたなら、その時は私も一緒に行かなきゃならない、って」
何の脈略もなく、突然そんな独り語りを始めた彼女が、もしかすれば自分だけに伝えたかった、気づいて欲しかったであろう、ある秘密。
 
「正直認めたくなかったけれど、自分なりに色々調べて考えて、全部受け止めるつもりだったよ。だけどやっぱり俺じゃ役不足。頼り切れなかったんだろうな」
心のどこかで覚悟していたこの日が、こんなにも早く訪れた現実は、あまりに辛すぎるばかり。
彼女にとってこの世界のこの環境は、どうしても生き辛かったのだろう。
次々と押し寄せる様々な感情のすべてと対峙しなければと、心の奥歯を喰いしばっていた。
 
次の日曜、もう1度あの店に足を運んで、お見舞いと再戦表明の言葉を伝えた和宏。
「焦らずその腕を完治してください。そしてもう1度、僕の無理難題に応えてください」
 
前から5両目、優先座席とは反対側の連結器寄りの、2人の定位置。
あの珈琲専門店の木製椅子。
生徒通用門を出て信号を渡り、斜め前方からジグザグに続く、秘密の帰路。
振り返ってくれない後姿を日々見送り続けた、君の家の最寄り駅改札口。
それから……
 
こうして手をそっと伸ばして白い指を探せば、他の誰にも見えない香織の姿が驚いたように両手を窄め、それでも寄り添ってくれる手前の距離感で、いつも隣に……
 
2 度 目 の さ よ な ら 。
  
 
2-9. 青春と呼ばれる時間の中を
 
 「二十八!二十九!三十!」
全員が息も切らさず腕立て伏せを終え、いよいよこの日は飛び込み前転受け身と立ち技の練習へと。
師走手前の冷え切った道場では、森の模範演武に続き、2人1組での乱取り稽古。
和宏が放った大外刈りが強烈すぎたらしく、受け身を取り損ねた相手が後頭部から激しく仰向けに倒れた。
そんなタイミングでこの日の4限目、体育の授業の終わりを知らせるチャイムの音が。
「早く着替えて学食行こうぜ!」
「おうっ!カツカレー売り切れたら大変だぞ」
正座から全員で一礼を終えた腹ペコ男子一同は、更衣室へと一目散。
我先と先頭争いを繰り広げるダンゴ集団の中に、頭半分以上飛び出した笑顔が見え隠れしていた。
 
近藤和宏16歳。
『名は体を表す青年』へと、心身成長現在進行形。
卒業後の具体的な夢や目標その他、未だ白紙。
  
 
 
3-1. 2019年初夏手前の住宅街
 
それにしてもこの町はコンビニラッシュ極まれりだと呆れつつ、それでもオープニングイベントにその都度足を運ぶ自分に向けて、
「堅実な市民生活を営む上で必要な市場調査さ」
自らの子ども世代よりもさらに若い、不慣れなアルバイトスタッフの右往左往にも、可愛い女の子限定で目を細める小市民。
それが天命を知るとされる年齢を越えて久しく、これすなわち還暦カウントダウン中の、和宏の日常のひとつだった。
 
成功者と称されるにはほど遠くも、いわゆる早期リタイアから分相応の第二の人生を、肩肘張らずに数えていた。 
世の同世代の多くの人達が、職場に於ける居場所の確保に窮する中、第三者の目には悠々自適と映っているのであろう毎日。
取り立てて起伏に富むでもなく、ただ穏やかで、なにより自身に優しかった。
 
世間様のランチタイムが近づく手前、午前中の搬入作業が一段落着く午前11時頃を見計らい、この日もダントツでお気に入りの店舗へと。
「いらっしゃいませェ!」
変わらぬ元気なお声がけが、この日は風邪気味なのだろうか、随分辛そうなハスキーボイス。
一気に大混雑となる少し前のこの時間帯は、他の来客の姿が店内に見当たらぬ貸し切りタイムもチラホラ。
スタッフと何気ない雑談を交わすのにも好都合だった。
 
「どうしたの?その声?疲れてませんか?」
「いえいえ。花粉か何かにヤラレてしまったっみたいで」
「お孫さんのお相手で声を枯らしちゃったとか?」
「それもあるかも知れませんね」
他の若いアルバイトスタッフと比較しても、その明るい笑顔と覇気溢れる仕事振りが目を見張る、この女性スタッフ。
同世代だからこそ会話のリズムが合うのだろう。
あたかも幼馴染み同士のような掛け合いが、和宏の楽しみのひとつだった。
 
一方のこの女性スタッフもまた、多忙な勤務中のわずかなこの時間を、どうやら元気の素と捉えているらしかった。
常連客との他愛もない雑談は数え切れずとも、絶妙すぎる緩急の効いた言葉のキャッチボールは、たとえるなら夫婦漫才の域。
それが他のスタッフには異質と映るらしく、興味深く耳を傾けられる場面も。
来客との不要な私語は慎むようにとの通達があるのではと注意を払っているつもりも、毎回弾み過ぎてしまう、彼女との会話。
 
「いやいや、熟女じゃなくレディーに対し、年齢の話題は失礼かと控えていましたが、よもや同学年だったとは。それにしても素晴らしすぎるアンチエイジングウーマンですね」
「孫2人を代わる代わる押し付けられて、もうクタクタですよ。だからここに逃げ込んでいる時間の方がずっと楽で・・・・・・でも可愛いいですよ。孫って」
「わはは。それよりそのしゃがれ声、こりゃ昭和のムード歌謡で昔のおっさん連中を悩殺できますよ。ドゥビドゥビ・ドゥビドゥババアっ」
「誰がババアですか!?この場でお客さんも悩殺しちゃいましょうかっ!?」
ここでようやく耳をそばだてる周囲の様子に気づいた和宏が、首をすくめてグルリとお詫びの一礼を届けたと同時に、自動ドアが開いた。
 
眩しい屋外からの逆光線の中のシルエットは、彼女のお孫さんだと直ぐに察せられた。
「潜伏先がバレバレだったみたいですね。じゃあこれで。ありがとう」
「お弁当すっかり冷めてしまいましたね。申し訳ございません。ありがとうございましたァ!」
若い母親の手をしっかり握り、不思議そうな表情で和宏を見上げる坊やに、軽く会釈をひとつ。
そのまま店外に歩を進めてみれば、注ぐ太陽光が思ったよりも強烈に感じられた。
随分弱くなったロー・ビジョン手前の視力で捉えた風景が、瞬時に白い霧の中に埋もれてしまえば、安全確保最優先。
他の通行人の邪魔にならぬ場所で、暫し立ち尽くすことに。
 
2度目のサヨナラから15年後のニアミス。
そこからさらに30年近い歳月の先に、こんな毎日が届けられようとは。
ホント毎回毎回、神様の脚本にはあまりに無理がありすぎるゾ。
 
そんな和宏の頭上を、普段とは飛行ルートを変えたらしい旅客機が急角度で上昇を続け、白い雲間へと吸い込まれていった。
 
理想とは言えないし、言いたくもない。
正直毎回胸が痛むのは、説明のつかない感情と、
「もしも・・・・・・」
神様が頑なに物語に織り込んではくれなかった、未練とも期待とも違う、邪推寄りの空想のせいだろう。
 
店内からは見えない位置まで移動から歩を止めた和宏の脳裏で、遠い記憶の中のニアミスの場面が、鮮やかに蘇り始めていた。
  
  
3-2. 子ども喫茶室での狼狽

その日親子3人で朝から出向いたのは、主要ターミナルの老舗デパートだった。
平成から令和にかけて老朽化に伴う全面改装工事が着工され、今は跡形もなくなってしまった、幼児連れ向けの喫茶室。
眼下にJRの主要駅を一望できる窓側の数席が常に争奪戦だからこそ、開店と同時に一直線が鉄則だった。

マニアには及ばずも鉄道も好きだった和宏にとっても、ここはいわゆる玉座。
相方を買い物に送り出すというよりも追い出し、次々と発着するカラフルな列車を眺めつつ、父子そろってハイテンション。
平日だったこともあり、幸いにもしばらくの時間は貸切り状態が続くも、そこは人気店。
ほどなく背中側の4人掛けテーブルに1組の家族連れが着席する気配を確かめた。
「静かにしような。ほかのお客さんに迷惑だからな」
こんな場面だけ父親らしく幼い息子を諭しつつ、振り向いて軽くお詫びを伝えようと、
「申し訳ありませ……」
次の瞬間、長年の時を経ての、よもやのフリーズふたたび。

ど、どうしてそこに座っているんだよ?
それになんだよ・・・・・・その園遊会出席みたいな正装以上の着飾った格好は!?

これぞセレブの純白のスーツ姿の向かい側には、口の悪い私が即興で命名するなら、
「ざーます婦人」
お高くとまり加減があまりに滑稽すぎる年配の女性は、お義母さまに違いなく。
息子と同年代と思われる女の子は、彼女のお嬢さんなのだろう。

一気にトップギアに入ったかのような心臓の鼓動が激しさを増し続け、アンコントローラブル状態寸前に。
完全に自身を見失ってしまったこの場面、スタッフの目にはおそらく、和宏が4歳の息子に引率されているようだったかも?

 とりあえず反対側の椅子に移動することで、彼女と向き合えるポジションを確保しようと、不自然にゴソゴソ。
背中越しに突き刺さる、ざーますお義母さまの過ぎたる化粧品の匂いから逃れたかったのも、偽らざるところだった。
一方で唐突に動き始めた父親など我関せずの息子は、父親譲りの遺伝子継承者。
眼下の列車ではなく、同世代の可愛い女の子をしっかりとロックオン。
子ども同士の輪の中では泣き虫いくじなしも、こうした場面では王子様モード全開のひとりっ子。
目の前の美少女に興味津々の彼が、臆せず本能に任せたアプローチを敢行すべく、隣席との境界線を越えようとしたその時だった。

「宅の高貴な孫娘に、アナタたち風情が色目を向けないでいただきたいざーますわっ!」
妖怪化粧オバサンのオーラに圧されてしったのか、小さな身体は大きく飛び跳ねるかのように後ずさり。
そんな恐るべき父子の天敵の背中越し斜め向かい、白いスーツのその人は、伏し目がちで無表情のまま。
 
お金は潤沢に違いないだろうけど、とても幸せそうには見えないな……

このタイミングを伺っていたかのように相方が戻って来るのも、これまた皮肉な星巡りだろうか?
個人的最悪の展開に内心愕然としつつ、冷めきっていた珈琲を一気に飲み干し、またしてもガラスにへばり付いていた息子を促し、席を立つことに。

宝くじの高額当選よりも低い確率で整ってしまった、想い出のクラスメートとの袖擦るかのような再会からのサヨナラの時間。
彼女とその嫁ぎ先の家族の一部が陣取る座席横を通りすぎる、その時だった。
妖怪が目の前のケーキを喰らっている瞬間を盗んだかのような速度で、彼女が動いた。

コンマ数秒、和宏の上着の先端を、白い指が確かに引っ張っていた。

弾かれたかのように振り返りそうになるも、どうにか自重した和宏の視界に、小さなお姫様の元気有り余る姿が飛び込んだ。
アイスクリームに添えられていた細長いウエハースを振り回してくれたのは、息子へのバイバイだったんだろうな……
  
 
3-3. ベストスタンス

遠い日あれだけ負の感情一辺倒だった『嘘』を、バレバレだからこその優しさで包んでしまえるのも、年の功ってヤツだろうか。
時に大切な相手を失いたくないからと、敢えて百パーセントの『嘘』を語り演じ切ろうとするのであれば、そこには『覚悟』の二文字が不可欠に。
ひよこのかくれんぼの黄色いあんよの真実も、終ぞ触れず見つけられずの鬼役を交代で担えるのであれば、そこに『嘘』は見当たらないはず。

コンビニスタッフの彼女は、あくまで近藤和宏なる氏名も男性も知らないし、それを常連客に確かめるでも告げるでもなく。
彼女の名札に記された『のさき』の三文字も、続く下の名前も、和宏は知らなければ、それを話題にすることもなく。
その時々に交わす短い雑談の中、互いが断片的にあるいは言葉の間に忍ばせる、それぞれの身の上話や思い出話。
それらの真偽を問う必要は一切なかった。
たとえ交わす言葉の字面が、すべて作り話だったとしても。

だから声にする必要も、そのつもりもなかった。

和宏が我が子の成人を待たずして妻を亡くし、両親を看取り、この街で独り暮らしであること。
一方の彼女も、放り出されるように嫁ぎ先を追われ、女手ひとつでここまで懸命に生きてきたこと。
そんな母の人生をなぞるかのように戻ってきた、娘と孫との同居生活の家計を支えるべく、こうして懸命働いていること。
さらには高齢の実母の自宅介護までも、自ら心身を張って担い続けていること。
そして日々の辛さからしばし解放されるのが、この職場での和宏との雑談タイムであること。

一旦声にすれば、それらが堰を切ったかのような独り語りになってしまいそうだからこそ、すべてを笑顔で包み隠して。

あくまで妻と2人で慎ましやかに暮らす近所のオッサン。
あくまで娘と孫の時折の帰省を何よりの楽しみとしている、パートの女性。

強さと互いを深く想い合うからこそこその、優しい嘘。
されど単なる『嘘』だけではない、真偽などどうでも構わない、これが互いの最高の近況。
 
とりわけ記憶の中には見当たらぬ彼女の社交性と積極性は、和宏の知らない年月を生き抜く間に培われたのだろう。
先天的に背負った特性の負の部分を、努力と経験が補い、さらには長所へと。
そんな『のさき』さんは、人として誰よりもキラキラと眩しかった。

思春期の入口だった遠い日の封筒の手紙、香織が文章の行間に精一杯忍ばせたつもりだった、和宏への率直な想い。
そして当時はどうしようもなかった、説明のつかない事情による突然の別れ。
さらには唐突すぎる再会からの短い季節と、またしてものお別れ経由、一瞬のニアミス。
振り返れば何かに翻弄されたかのような数十年、それでも赤い糸は切れてはいなかった。

「小さな俺の人生にしては壮大だったこの物語、香織さんに胸を張れるエンディングで締め括らなきゃな・・・・・・」
 
 
3-4. 今度は俺からの
 
「突然ですが仕事の都合で引っ越すことになりました。今日が最後の買い物になります。今までお忙しい中バカな世間話に付き合っていただき、ありがとうございました」
ほんの一瞬だけ表情が動くも、最後までプロの接客を貫き通す彼女。
「それは売り上げが減ってしまって残念です。もちろん今のは冗談ですよ。どうぞお元気で、こちらこそお見えになるのが楽しみでした」
 
この日に限って妙な混雑に加え、店内は見慣れぬ新人スタッフばかり。
立ち話を続けられる環境を整えてくれる、粋な配慮は期待できなかった。
それならば許されるだけ『のさき』さんの顔と姿を、自らの両目に焼き付けることに。
意に反して歪みかけた表情を、強引に笑みに整え直して目礼ひとつ。
そこから振り返ることなく店外へと歩を進めた。
 
制服姿だった記憶の中とは違い、今回は自ら口に出した、お別れの挨拶。
未練や後悔といった負の感情はご法度だと自らに言い聞かせての、最後の訪問だった。
 
自宅マンションの目と鼻の先に新規オープンしたコンビニで待っていてくれた、想定外以上驚愕レベルの再会物語。
真新しいレジカウンター内の年配の女性の姿に、己が人生の時計の針が音速を超えて高速で一気に逆回転したあの日。
呼吸すら忘れるほどだったっけ。
その日を境に日々ネタを仕込んでは足繁く通い続けた自分自身は、当時の和宏少年そのままだった。
これまで重ねた会話の数々を思い出しながら、ひとり微かに苦笑いの家路。
 
単品の総菜だけをレジに持参するなり、
「決して冷蔵庫に冷飯だけが残っているんじゃないからね!」
こんなふうに言ったら、笑い転げてくれて嬉しかったな。
 
ホットドッグを電子レンジで温めてもらっている最中、切れ込みが浅かったのか途中で暴発した時は、暫しの静寂から店内大爆笑だったよな。
 
「お箸とフォーク、どちらにされますか?」
「日本男児はお箸でしょ」
とパスタを買って帰ってみれば、出てきたのはスプーン…・・・やりやがったな!
 
決して他の来客や仕事の邪魔にならぬよう、1秒たりとも無駄にしたくなかった、現在のふたりにとってベストな距離感。
踏み込んで触れてはならない互いの人生と、越えてはならない一線。
これらが存在していたからこそ還暦間近のこの年になって、少年のような心の高鳴りを確かめられたのだろう。
 
「ありがとう!」 
大きすぎる独り言が喉元から溢れて声になったその瞬間、偶然すれ違った自転車の女性が怪訝そうな顔で、逃げるようにスピードアップ。
遠ざかるその姿を振り返りつつ、普段やらない頭ポリポリ。
このバス通りを西側に渡れば独身貴族の小さなお城まで、残り所要時間は数十秒。
  
 
3-5. 最期の戦闘準備
 
備え付けの電子レンジで温めてくれた『少しだけ手料理未満かも』のコンビニ弁当。
その温かさがこれ以上逃げてしまわぬうちに、自宅に戻ってゆっくりと味わうとしよう。
大半の家具を処分した何もない部屋だから、フローリングの床に広告を敷けば、一瞬で食卓の出来上がり。
数分前の彼女の笑顔が真向かいで微笑んでいる、そんな2人の食卓も、今日だけは遠慮がちに思い浮かべて構わないかな?
 
『ステージいくつ』とやらで告知される、余命宣告が避けられない病との闘いに臨むべく、明日この町を離れる和宏。
直前の最後の食事を最期とせぬためにも、存分に噛みしめて、身体と心に栄養を補給しておかなくては。
 
食後に仰向けに寝ころんだ殺風景な部屋の中、いつしか短くも深い眠りに落ちてしまった。
体調不良で眠りが浅い日が続く中、香織の笑顔に安心を覚えたのか、午睡が長時間の熟睡になってしまったようだ。
 
片道切符の覚悟は十分に固まっている明日から残りの人生、これで睡眠もバッチリだな。
 
梅雨入り前後のこの時期にはめずらしく、北東方向からだろうか、遠くから僅かな雷鳴が響き始めた。 
ベランダの外は宵闇の彩が刻一刻と、濃紺から黒へと変化を続けている。
それが転校生として初めて会ったあの日に香織が纏っていた、見慣れぬブレザーの制服を思い出させた。
 
速度を増して近づいてくる積乱雲。
午後に続いての一瞬の閃光に照らされたかと思えば,不意の大きな雷鳴がひとつ。
「日没少し前の通り雨だったなら、東の空に虹が架かったかもな?」
ふと零れたこの呟きに小さく心が躍ったところで、残念な気づきが舞い降りた。
 
忘れていたよ!
以前ベランダ越しに撮影から画像加工を施し、スマホに保存していた見事な七色のアーチの写真、コンビニの熟女にお披露目するつもりだったこと。 
 
僕は『ニジ(虹・2時)』の呼ぶ声が聞こえる男です。
 
なんて気取った口調を添えて、時計の短針が『2』付近の時間帯を狙うか外すか、どっちがベターだったかな?
 
そんな還暦目前ピエロの独り善がりを目にした、香織さんのリアクションはきっと……
 

 
#創作大賞2024
#恋愛小説部門

  
 (※本文総文字数=20813) 

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