色川武大『狂人日記』
(2020年3月14日に「noteのcakes」アカウントで書いたものを転載)
時々、『狂人日記』という小説を思い出す。『麻雀放浪記』で知られる作家・阿佐田哲也が、「色川武大」名義で1988年に発表した長編小説だ。
今一度、読み返してみる。
主人公は50過ぎの精神病を患う男で、病状の悪化のために入院している。飾職人、映画製作会社社員、長距離トラックの運転手など、幾つかの職を転々としてきたが、どれも「職業」というより「アルバイト」という感じが抜けずに長続きしない。その中で、唯一続いたのが飾職人。もともと図画工作が得意な子供だった。
飾職人として働いていた頃、園子という名の女と恋仲になった。この頃は仕事の方も定着の兆しを見せていて、男が初めて人生というものに希望を持った時期だった。けれど、すぐに園子は結核で死んだ。園子との思い出は、男の人生の中で唯一といえる甘い記憶だが、一方でその後の人生に深い影を落としている。
園子と暮らしていた時、寝ている園子の隣で夢精してしまったことがあった。男は頻繁に自分が殺される夢を見る。すると、快感とは違う、もっと大きな情感に襲われ、深い充足を覚える。自分だけが見ているもの、他人には決して感受できないものに、男は魅せられている。それは自己愛だった。自己愛と、園子への愛と、どちらが大きいか。園子との生活は、男に「自分は死ぬまで他者を愛し切ることができないのではないか」という疑心を与えた。
男には、弟が1人いる。家庭の事情で学校に通えなかった弟は、いわゆる「法律に背く種の」商売をして生活を立てている。家族は妻と障がいを持つ子供が1人。自分とは別の家に住まわせている。妾もいた。養わなければならない者をたくさん抱えているだけに、生活費もたくさんかかる。だから、「これからは、為替のディーラーだな」などと、常にもっと稼ぐことを考えている。そんな弟を見て、男は不憫な気持ちを抱く。
けれど、男はこうも思う。
「皆で一緒に暮したい。誰も彼も、一つになって、満員電車のようになって暮したい」と話す弟と、幻覚や夢想に囚われ、他者を愛する、愛し切ることに自信が持てない自分とを対比してみて、男は「どんなことでもやれる可能性を持ちながら、何もやらないできた自分」ばかりに気持ちが入って沈み込んでしまう。
そのうち、男は、同じ病院内で暮らす圭子という女と恋をする。圭子の病状は男よりも上向きで、もうじき退院が控えている。彼女は「貴方を看病してあげるわ」と言う。そのうちに二人は、病院を出て安いアパートに暮らし始める。
男にとって、圭子との生活は人生の再出発だった。他者と一つになって、理解し合って暮らしたい。そこが、自分の人生の本当の再出発になるという思いがあった。けれど、男が夜中に見る幻覚が、それを邪魔する。幻覚で男が目の当たりにするものは、ことごとく不気味なものの集まりで、ふと見ると圭子の真後ろに毛糸の頭巾を被った男が立っていたり、自分の顔がもう一つ空中に浮かんでいて、じっとこっちを見つめていたりする。それらは、決して自分以外に見えない。
男は、自分については誰よりも冷静に分析している。久しぶりに送る共同生活で、圭子と同じく消耗してしまっている自分について、自分の身勝手さについて振り返る。
他者を愛する、ということを避け続けたばかりに他者と心を通わそうにも、その方法がもはや分からなくなってしまっている自分に、呆然とする。一人で生きていくことは、男にとって決して自立でなかった。ただ自分の特異さにこだわって他者や世間からいたずらに遠ざけていくだけだった。過去に陶然とした感情を想起させてくれた幻覚や夢は、今となっては苦痛でしかなく、それらはいつしか男を狂人に仕立て上げてしまっていた。タールのように黒々とした苦痛の只中で、男はそれでもこう思うのだ。
やがて、圭子は家に帰らなくなる。男は死ぬより他に道はなしと、断食を決め込む。徐々に弱り、立ちあがることもままならなくなっていく体を横たえながら、男は母がおはぎを持って家にやってくる幻覚を見たり、真っ白なドレスを着た圭子が泣きながら戻ってくる幻覚を見る。圭子の幻影に「俺も連れてってくれ!」と懇願しながら、絶望の只中で物語は終わる。
独立して生きようとするも叶わず、しかし他者との関係を作っていくには手遅れなまでに孤立してしまった『狂人日記』の男に、時々自分を重ねあわせてみる。自分にしかないもの、他者とは違う(と、思われた)部分を頑なに守ってきた。「普通」や「平凡」という言葉に誰よりも強い抵抗感を抱いてきた。劣等者として他者に寄りかかることを嫌い、でも率先して他者を理解してやる気持ちにもなれない。どうせ他人には自分のことは理解できないだろうと思う。その末に待っているのは、他者との距離感にとことん不感症になってしまった狂人ではないか、と時々考えたりする。
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