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専門学校とストーカー

1996年4月、栄養専門学校へ入学した。
化学や物理は、ある程度好きだったので、授業は楽しかった。
カバとの付き合いはまだ続いていたが、正直、私は別れたいと思っていた。
カバは再就職したものの、なにかと文句や言い訳ばかりしてすぐに退職する。
そして借金が増えると、カバのバカ親が出てきて清算してくれるということを繰り返していた。
カバの親には可愛がっていただいたが、常識のラインが私と違い過ぎて、【この人たちと一緒にいるのは無理だな】と思うことも多かった。

私は、成人式も迎えた。
専門学校時代に15㎏も体重が増加してしまい、晴れ着を嫌がったが、親に説得され、写真だけ撮影した。
まるで大木に着物を巻き付けたような仕上がりで、封印した。
そして高校と違いサボらずに2年間勉強を続けて、1998年3月に専門学校を無事に卒業した。
4月からは栄養士として介護老人保健施設の調理室に就職した。
この2年間の間、私は何度カバと別れようと思ったことか・・・
ただ抱きしめられちゃうと、その決意が揺らぐという事を繰り返した。
私も情けない人間だった。

就職したものの、高齢者の独特の加齢臭が苦手で、4か月で退職を決めた。
やっぱり私は子どもに関わる仕事をしたい!という、封じ込めていた気持ちが溢れ出した。
すぐに認可保育園の時間外保育(朝と夕方)の補助の仕事に就きつつ、昼間は鯛焼き店のアルバイトをしていた。
この4か月の間に、カバにそそのかされて、名義貸しをしてしまい私も借金まみれとなってしまった。
この借金を返すのに、昼夜問わず仕事をするようになっていた。
仕事が休みの時は、19歳で親名義で買った愛車(Imprezaスポーツワゴン)で、ドライブしまくっていた。
カバに会わないようにするため。

1998年10月、カバの誕生日に別れを告げた。
携帯電話もすべて着信拒否にした。
私に残ったものは200万円の借金のみ。
ひたすら働いて、支払って、また働いて・・・と頑張った。
カバはその後、ストーカーとなって、私の周囲に突如現れるようになった。
1999年1月、保育園の仕事を終えて、保育園裏の住宅地内にある駐車場へ向かうと、私の愛車の前にキラキラ光る物を持った人が立っているのが見えた。
近づくと思いつめたような表情のカバだった。
「俺を捨てるのなら、稀琳を殺して、俺も死ぬ」
と大きめのカッターの刃をチラつかせてきた。
私は、着替え等のかなりの荷物を持っていたため、
「とりあえず、荷物を置いてから話を聞くから、車のカギを開けて良い?」
と答えた。
カバは頷いて、私が車に入れるように少しずれた。
カバは単細胞なので、基本的に後先を考えないバカであった。
私は荷物を置くふりをして、そのまま乗り込み鍵をかけて、急いでエンジンをかけた。
カバが助手席のドアを開けようとしたとこで、思いっきりクラクションを鳴らしたため、住宅街に響き、驚いた拍子に車から離れたところで急発進させた。
そのまま駅前の交番へ向かったが、不在。
仕方なく近くの警察署に行き、事情を説明した。
25年前くらいは、“ストーカー殺人”がニュースで報道され始めた頃。
警察は「その周辺の見回りを強化しておきますね」程度で終わってしまった。

これは1996年4月~1999年1月頃のエピソード。
4年間、無駄な時間をカバに費やしたものです。
挙句の果てには、借金まみれな上に殺されかけたし・・・
私の心の中には、やはり常に海空先生が居ました。
でも会えないのは変わりなかったのですが。

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