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旅立ちの唄〜and I love you〜

最後のあなたの顔の記憶は、薄いブルーの不織布マスクと、いつもの鋭さをまるでどこかに置き忘れてしまったような、やわらかく濁った瞳。

人もまばらな、午前9時50分の駅構内。
店員がカウンターで伝票整理の作業に没頭しているのをいいことに、代わり映えしない品揃えの土産店の中を何周も回っている。

これからこの駅に来るはずの彼を待つことに決めたその理由は、最後にどうしても一目その顔を見ておきたかったから。
…いや、その時は正直、それを最後にするつもりなんて全くなかったのだけれど。
遠く離れる彼のもとへ、時期を見て逢いにいくことを本気で考え、密かに食費を削って貯金までしていたのだ。

駅で彼を待つ数日前の逢瀬の帰り際、彼は車の助手席から降りるときに『元気でね』と言った。
気の利いた言葉も返せぬまま頷き、そのまま車を走らせて我が子を迎えに行く以外の選択肢を持たない自分の立場を、あの日、はじめて悲しいと感じた。

ー何もかも手放して、一緒にいけたらー

叶わぬ夢。
叶えてはいけない夢。
たとえ、この突発的かつ世界的な気味の悪い疫病の流行が落ち着いたとしても。
それとこれとは、関係ないのだ。


10時10分。
彼が乗るはずの列車は、およそ10分後に出発する。

改札口に向かって歩いてくるビジネスマンとおぼしき男性数名の姿が見えてきたが、その中にはまだ、早足で堂々と歩く彼の姿は見当たらない。
左手にずっと握りしめていたご当地柄のタオルハンカチの会計を済ませ、用心深く改札口に近づく。

一瞬、後方で子どもの叫ぶ声が聞こえて、反射的にそちらを振り返る。
次に改札口の方に目を向けると、発車予定の電車を目指すであろう人の群れ。 
一瞬の隙をついて流れてきた人波の中に、見慣れた黒いコートを探すも、目に入るのは似たような別の人ばかり。
もしかして、もう改札を通り過ぎてしまったのか?

人の波が途切れた次の瞬間、私の両目は、改札口のすぐ向こうでスーツケースと2つの紙袋を持ち、ポケットから何かを探そうとしていた黒いトレンチコートの男にフォーカスする。
彼は、改札口から見える位置にあるベンチに腰かけ、少し休んでいくつもりのようだ。

このまま、ここから、その姿を見ていようか?
声をかけるのがちょっとためらわれるほど、なんだか疲れた様子で座り込んでいる彼。

だけど、今このチャンスを逃したら…
もう、二度と逢えないかもしれないとしたら?

一瞬の迷いを跳ね飛ばすように、私は切符売り場に走って入場券を購入し、改札を通って彼の座るベンチに近づいた。
ふと顔を上げた彼は、私に気づくとやはり驚き、若干戸惑っているように見えた。

『お疲れ様です』
そう声をかけ、隣に座ってもいいか尋ねると、無言でスーツケースの位置をずらして座りやすくしてくれたので、少しだけ間を空けてベンチに腰かける。
『車で来たの?』
適度に低く、やわらかく耳に届く心地よい声は、マスク越しでも変わらない。

少しずつ警戒が解けていく眼差しに安堵して、私は次の言葉を続ける。
『いきなり来ちゃって、びっくりするよね』
ひとつひとつ言葉を選ぶ余裕も時間もなく、思いつくまま喋る私を見る彼の表情は、口元こそマスクに隠れてわからないけど、何となく笑ってくれているようにも思えた。
いや、そう思いたかっただけかもしれない。

『誰かに会わなかった?』
この街にある大きな駅はここだけだから、誰かと鉢合わせても不思議ではない。
だからこそ、新しいベージュのスプリングコートを羽織り、新しい花柄の布マスクをつけ、クローゼットの奥に眠らせていたボッテガ・ヴェネタのイントレチャートを小脇に抱えてきたのだ。

『少なくとも、会社の人は見なかったけど…私、さっき来たばかりだから』
嘘つけ。お土産屋さんで30分待機していたくせに。
『そっか。誰か来るかもしれないけど…まぁ、マスクもしてるからなぁ』
彼はそう言いながら、私の右手に自分の左手を重ねてくる。

指先から伝わる彼の体温のあたたかさは、それまでも全身で感じて知っていたけれど、物理的に距離が離れる今となっては、とても貴重なものに感じる。

その温もりを感じ始めてからの会話は、正直、よく覚えていない。
多分、彼の赴任先がどんな場所とか、気候の違いとか、そんなたわいもない話をしていたように思うけど、私の意識は言葉ではなく、彼の目の色と指先の感覚に集中していたから。

いよいよ電車の出発時間が目前に迫り、その旨のアナウンスが流れ始めると同時に、彼は席を立つ。
『じゃあ、そろそろ行くわ…』
『うん、気をつけてね、行ってらっしゃい』
もはや引き留めることも、まして戻すことも叶わない時の流れに逆らわず、私は笑顔でホームに向かう彼に手を振る。

伝え足りないことも、まだまだ一緒に楽しみたかったことも、たくさんある。
だけど、生きてさえいれば、きっとまた逢える。
彼と私の地元はこの小さな街だし、いずれまた何らかの形で顔を合わせることは、生きてさえいれば必ずある。
今は、そう信じるしかない。

誰にこの関係を否定されても、未知のウィルスがこの世界を混乱に巻き込もうとしても、何をどう信じるかだけは私の自由だ。

後ろ姿が何度かこちらを振り返るのを笑顔で見届け、黒いコートの後ろ姿が見えなくなるかならないかの瞬間、ギリギリまで堪えていた涙が次々とグレーの床に落ちていく。
買ったばかりのタオルハンカチの封をその場で慌てて開け、顔全体を覆うように押さえたら、あとはもう少しも我慢できず、小さく呻きながらしばらく泣いた。

車を停めていた駐車場に戻り、エンジンをかけると同時に聴こえてきたBGMは、彼と私がこよなく愛するMr.Childrenの名曲だった。


“疲れ果てて足が止まるとき
少しだけ振り返ってよ
手の届かない場所で背中を押してるから”


〜Fin〜


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