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HERO

『でも ヒーローになりたい〜♪
ただ〜ひとり きみにと〜っての〜』

お風呂場で熱唱しながらシャワーを浴びているのは、夫のケンちゃん。
大好きなミスチルの歌をこうして歌っているときは、彼の機嫌がいい何よりの証拠。

リビングのテレビでは、懐かしの歌番組で全く関係ない昭和のヒット曲が流れていて、ケンちゃんの歌と絶妙な不協和音を奏でている。
私はテレビの真ん前に座り、まだ首の座らない我が子・琴羽(ことは)を横向きに抱っこして授乳中。

この1ヶ月で、だいぶ上手におっぱいを飲めるようになった琴羽だけど、ついこの間まで母乳相談室に通っていた私たち。
全3回でナントカ式の母乳が出る施術を受けて、抱っこの仕方や食べ物の指導もされて、めでたく授乳に困らなくなった今となっては、もしあそこに行ってなかったら私、長時間のお産から2ヶ月余りずっと続く極限状態で、そろそろ死んでいたのではないかと思う。
だから、あのサロンを偶然見つけてくれたケンちゃんにも感謝しなきゃなんだけど…

琴羽は、可愛い。
可愛いけど、よく泣く。
何やっても、やらなくても泣く。
授乳のときと眠るとき以外、おそらく24時間中20時間くらいは泣いてるんじゃないだろうか?
泣く理由が明らかに私のせいなら、例えばお腹が空いたとかオムツ替えとかなら頑張って対処するけど、それらを経てもなお泣くもんだから、もはや意味不明。

泣くのが赤ちゃんの仕事だとは私の母も、ケンママ(義母は私に自分をこう呼ばせている)も口を揃えて言うし、ネットの記事にもそう書いてあった。 
そうは言っても、もちろん泣いている琴羽を放置できないので、その都度抱っこ…両腕に鈍い痛みを感じながら、半ば放心状態で眺めていることが多い。

とりあえず寝てくれよ…私も眠いし疲れてんだよ。
あんた産み出すまでに、丸2日かかってんだから。
心の中で毒づく私を励ますように、テレビからはZARDの『負けないで』のサビが聴こえてくる。

“負けないで もう少し
最後まで 走り抜けて”

だけどさ、この毎日のように赤ちゃんが泣く日々の終わりって、一体いつよ?
ゴールが見えなきゃ、人間頑張れませんって…ああ、またギャン泣きが始まった。


『ミコ、風呂入る?』
浴室からバスタオル1枚巻いて出てきたケンちゃんは、そう言いながらまっすぐ冷蔵庫に向かい、キンキンに冷えたビールの缶を開けて飲み始める。 
『いや…いいです』
だって、酔っ払いに泣いてる琴羽を見てもらうわけにもいかないじゃない。
『大丈夫?顔、だいぶ疲れてるよ』
そりゃそうでしょうよ、私この2ヶ月、多分5時間以上まとめて眠れたことってないんだぜ、毎晩イビキかいて爆睡してるあんたと違って!

『呑んでたら泣いてても抱っこできないでしょ、落っことされたら嫌だわ』
裸で呑気に寛ぐその姿に腹が立って、口調がキツくなる私。
すると、ケンちゃん、食い気味にこう言い放った。
『抱っこしなくても、泣きやめばいいんでしょ?』
こっ…この野郎!!
完全にカチンときた私、泣き続ける琴羽をベビーベッドに乱暴に置いて、浴室に向かうことにした。

泣きやめばいい、だとぉ?
なーに言ってやがるんだ、このバカ野郎が!
風呂上がりにビール片手に赤ちゃんあやせるもんなら、やってみろってんだい!
…と、私の中に棲む《べらんめえミコ》が啖呵を切る隣で、やはり私の心にしっかりと自分の部屋を作っている《自己肯定感低すぎるミコ》が小さく呟く。

私、なんで自分の子どもくらい、泣き止ませることもできないの?
私って、なんでこんなに母親としての才能ないの?
私、母親らしくちゃんとできなかったら、生きてる価値なくない?

なまぬるい涙が、熱いシャワーのお湯に混ざって床に落ちてゆく。
ついでに体も溶けてなくなってくれたら、もうあの罪悪感を刺激されて苦しくなる泣き声を聴かずに済むのに。

シャワーを止めた次の瞬間、琴羽の泣き声が聞こえなくなったことに気づく。
ケンちゃんが本当に泣き止ませたのか、それとも泣き疲れて寝たのか?
慌てて体を拭き、膝丈まであるTシャツをかぶってリビングに急ぐと、そこには琴羽を愛おしげに見つめながらユラユラと抱っこしているケンちゃんの姿があった。

ああ、完全なる敗北。
別に私じゃなくたっていい…むしろ、私じゃない方がいいのか、この子には。
そう思うと、また涙が出てきてしまう。

『あれ〜?さっきまでことちゃん泣いてたと思ったら、ママが泣いてるよ〜?』
琴羽の表情は、普段抱っこし慣れていないパパに抱っこされて、キョトンとしている感じに見える。
『ママ頑張りすぎて、疲れちゃったんでちゅかね〜?ことちゃんも心配して泣いちゃうよね〜』
延々と赤ちゃん言葉で琴羽に喋りかけるケンちゃん。

『だ、大丈夫…?』
琴羽が、うっすらと目を閉じかけている。寝そうだ。
『うん、何とか。ミコは?』
ケンちゃんなりに私を心配してくれているのがわかったので、抱っこを代わろうとすると、やんわり制止される。
『俺にも、たまには抱っこさせて。一応パパだし』
別に、今まで拒否しているつもりはなかったけど、特に頼んでもいなかった。
私がやらなきゃいけないことだと思っていたから。

『3人で、頑張ろう』
不意に、ケンちゃんがそう言う。
『頑張るっつーか、楽しもう。人生まだまだ長いし』
寝入った琴羽の体をそっとベビーベッドに置いたあと、ケンちゃんの両手は私の方に伸びてきた。
『いつも、ありがとう』
さっきまでとは、また違う涙がこぼれてくる。
何だよあんた、本当のヒーローかよ…ケンちゃん。


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