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思索の端緒~問い「命の儚さ」

 死について何か表現しようとするときは大きな戸惑いがある。それは、この問題が非常に真剣であって、とても何かの方法論や観念論で解決できるような代物ではなく、かつ、逝く者、送る者、双方にとって大きな心の痛みを伴っていることが多いからである。

 私もクライアント( 感覚的には同志や戦友に近い )との長い付き合いのなかで、お元気だったころを過ぎ、いつしか病に伏され、しだいに弱られ亡くなっていくお姿を幾人も拝してきた。でもそうなると、取り組みが及ばないことへの無力さや、後になって臨終の瞬間を思わされたときの寂寥、もう本当に会えないと実感したときの悲しみが長いこと残ってゆく。そしてそれは、命の儚さ をずっと思い知らしめる。


 だから 問いたいのである。そんな 命儚い我々は一体何者なのか。何故、こうも苦しみを受けなければならないのか。この問題の本質は何なのか。


 不老不死を望んでいる訳ではない。いつかは命を閉じなければならないならば、その間際で取り乱すことのないように、もっと早くから対処をすべきではないか、またそれは可能なのではないか。

 これにはいわゆる「終活」のことも含まれる。だが、ここで述べたい対処とは、先の問いを踏まえた、より精神的な、逝く者と送る者の深い心のやり取り、繋がりのことだ。

 こう言うことは、日頃の日常生活にあって、その問いに不馴れで解も曖昧なときは、なかなか難しいことと思う。でももしそのやり取りがより深くあれば、あの 命の儚さ を思う心の痛みを、少しでも中和してくれるのではないか。そして、このことを確かめたくて私の思索は始まったのである。


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