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エマ・ワトソンに能面を

最近、大学三年生“らしく”校外活動に勤しんでいた際、
「能楽サークルの幹事長を務めるにあたって、ジェンダー的観点で何か取り組んでいることはありますか?」
と尋ねられたことがあった。

フェミニストは世界には少なからず存在しているが、自分自身をフェミニストと自認している人はごく少数であろう。

私自身、その質問を投げ掛けられるまで、自分がフェミニズム活動に関心を持っていることに気付かなかった。

能楽サークルを運営する上でジェンダー観点で意識していること、、

私は、
「私が所属する関東圏の能楽サークルの中では、玄人ならまだしも、素人の女性は基本黒紋付を着てはいけない。という決まりのようなものが存在する。」
「昨年女性の新入部員が入ってきた際、彼女は男性の着ている黒紋付姿に憧れを抱いていた。」
だから、
「私も着てみたい!」
と言われた時、一瞬その決まりを挙げて、
「紋付はNGなんだよ。」と言おうとした。
しかしその時、
その決まり自体が時代にそぐわず、能楽敬遠の流れを助長する原因の一つとなっていたことに気付いた。
何かを変えなければと思い能動的に能楽サークルを運営することを決めていた私は、腹を括った。

そして、
「着物はどんな着物を着てもいいんだよ。黒紋付が着たいのなら、自由に着ていいよ。
何色にも染まらない黒、裁判官らしくて君に似合いそうだね。」と、法学部生の彼女に伝えた。🧑‍⚖️

伝えてしまった後で少し冷や汗だったが、サークルを指導する師匠とも話し合い、女性の紋付着用の了承を得た。


今考えれば、フェミニズムに共鳴するような行動はちゃんと起こせていたなと思い、そのエピソードを質問者に語った。

其の場凌ぎの回答となってしまった感は否めないが、この質問を頂いたことは、能楽の持つフェミニズム要素について考えを巡らせるきっかけとなった。
そこの選考自体は上手くいかなかったが、能楽普及活動を推進する者として、これは非常に大きな収穫だった。


ここで、「フェミニズム」の意味について確認する。

フェミニズムとは、性差別をなくし、性差別による不当な扱いや不利益を解消しようとする思想や運動のことである。フェミニズムはその歴史から女性権利向上・女性尊重の運動だと捉えられがちだが、男性嫌悪や女性だけを支持するものではなく、男女両方の平等な権利を訴える運動である。

IDEAS FOR GOOD
社会をもっとよくする世界のアイデアマガジン

女性の立場向上のため!と女性偏重の思考は却って、痴漢冤罪問題といった男性蔑視問題を招きかねない。
男女両方にスポットライトを当てた言葉であると御留意いただいた上で、この投稿を読み進めていただけると幸いである。


中世から近世にかけて、能楽は主に武士階級の嗜みであった。
謡の稽古は各地の寺子屋で行われていたようだが、舞の稽古は武家の間でしか殆ど行われておらず、武家特有の式楽として普及していた。

武家では、家を継ぐ男児が常に嘱望される反面、女児は産み捨てや人質、強制的な政略結婚など、女性差別的な意識が常態化していた。

そういった環境下で女性に能楽が普及する筈もなく、能楽を嗜む男性にとっても、「能楽」としての自由度を狭める結果を招いていたことは否めないだろう。

現代社会では、男女雇用機会均等法、男女共同参画社会基本法の二つの法律の制定により、欧米諸国に遅れて日本でも女性の社会進出が漸進的に進み始めた。

能楽界でも、女性能楽師という立場の誕生など女性の舞台進出が始まった。
しかしそれは非常に限定的なものであり、プロになるための修行過程や演じられる演目等、男性と比べて下に扱われることが多く感じられる。

プロと比べて素人の世界では、女性のお弟子さんの割合が年々増している。
例えば、私の所属する能楽サークルの男女比は1:1であったり、近隣の能楽サークル内でも女性部員が多かったりする。
女性の中でも能楽を嗜む方は増えているのだ。

プロの世界では男性優位な旧体制が続いている為、女性がプロの世界に飛び込みづらい環境となっている。
男性メインで組む能の地謡(バックコーラスのようなもの)では、女性が入らないこと前提に組まれている場合が多いため、女性は男性の声に合わせてうたうことを強いられる。
年功序列の能楽の世界に於いて、例え年上の女性であっても女性が地頭になることが殆ど無いのは、古くからの男性優位・女性蔑視意識の表れであると感じる。

その影響もあってか、女性能楽師は舞台に立つ機会が男性と比べてかなり少ない。

私は、プロの世界のそうした制度に“一応の”根本的な問題があると感じている。辿りに辿れば古代まで遡ってしまうため、一旦ここで留めておく。

この問題を言い出したところで、閉鎖的で且つ年功序列の能楽界では、
「素人の学生の分際で何言ってるんだよ。」
と陰口的に一笑されるだけであろう。

陰でしか言えない、というのも、暗に能楽界の旧体制の弊害を認めていることと同義であると個人的には感じるが...(笑)

エマ・ワトソンさんや上野千鶴子さんのようなフェミニズム運動の前線に立っておられる方々は、こうした数多の批判に晒されながらも健気に自分の志を貫き通している。
私に彼女達のような勇気は無いが、触発的に学生という立場を利用して、女性が能楽に親しみやすい環境を整えることは可能であろう。


ここで、能楽の持つ「没個性」についてフェミニズム的観点から検討する。

能では、演者はいわゆる「能面」(おもて)を着けて自身の個性を面の内側に閉じ込める。
カッコつけたい、緊張する、私はイケメンだ、と言った雑念や個性を閉じ込めて、室町から伝わる普遍的な「型」を以て役を務める。

型はからだからからだへ伝承されてきたものであり、その型は演じ手によって、画一的でありながらもヒラキ方やカマエの大きさ、解釈などはまちまちである。

「型」や「能面」によって演者の個性を閉じ込められると、視覚や頭脳といった、日常生活で偏重されているものが頼りにならなくなる。
ここで大切になってくるのは、霊長類本来・生物本来の持つ、「五感」の働きである。

普段は中々使うことのない「五感」の働き、これを没個性の環境下に於いて存分に使うことで、自然の摂理に心身が還元される。
没個性的に様々な役と向き合うことで、役に共感の念を抱き役に慰めてもらったり、演じることで役の鎮魂になったり、観る側にとっての鎮魂となったり...

「他者を演じることは、自分じゃない誰かのことを理解し、共感する力を育む。」
私が大学でお世話になった俳優の、中野亮輔さんが先程偶々Xで述べていた言葉である。
気に入ったのでピックアップ🙏

能楽は鎮魂の芸術である。
それは、能舞台という神聖な死者の空間に於いて、“生きている者”が、
没個性的に役と、そして己と向き合うことで初めて生じる作用であると私は考えている。


また、女流能楽師、鵜澤久師は、
「能面は視界が狭くなるため、身体全体で舞台の四本の柱の存在を感じることが大切である。」と、説いてらっしゃった。

鵜澤久師の舞は、先日宝生能楽堂にて開催された柿原崇志の三回忌追善会で鑑賞する機会に触れた。
齢七旬を過ぎながらも舞囃子「景清」「求塚」という格の高い演目を凛々しく務める御姿に感銘を受けた。
三間四方の能舞台、その空間美を感じさせられる、凄みのある舞台であった。
気魄の籠った、謡や舞は、高名な男性能楽師の舞台に勝るとも劣らぬ見事なものであった。
それと同時に、男らしく舞台を務めてきたであろう鵜澤師の生き様が、役の姿を通して、女性特有の高く柔らかな生来の声を通して伝わってきた。

個性を閉じ込めて初めて真の個性が見えてくるというのが能楽の魅力の一つである。

五感の働きに身を委ねて没個性的に役と向き合う能楽は、「何者かになりたい」と願うあまりストレスを抱える現代人にとって、ある種のストレス発散、鎮魂の場、そして共感の念を育む教育の場となるのではないだろうか。

能面・型の中に自己を閉じ込めることは、男女共に可能なことであり、ジェンダーという個性を一時的に埋没させることである。
没個性、というのは、個性を、フェミニストとしての個性を主張する勇気の無い私のような現代人にとって、恵まれた環境であるかもしれない。

個性を閉じ込め、他者と、異性と、神と真摯に向き合うことで、共感の念を抱くことができる。他者に優しくすることができる。
つまり能楽は、国民一人一人に、日本人としてのアイデンティティを持つ機会を作るだけでなく、
没個性という環境下に於いて、フェミニズムの根幹である男女平等、それを生み出す他者理解力を養うことができる稀有な芸術なのだ。

人が人たらしめる為に一番大切なのは、徳育であると私は革新している。
私が能楽を通して学んだ、他者に情けをかける優しさは、未来永劫決して無くなることのない、失って欲しくない人間の本質である。

文明の誕生、著しく進む技術革新の本来の目的は、人類の平和・幸福のためであろう。
差別を助長し戦争を招き、一部の人々が不利益を被るためのものではない。

技術革新や政治、能楽といった人間特有の文化が、男女平等な社会実現の一助となることを祈って。
今日はこの辺で...!

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