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陽の光が尊い生活のよしあし

職場が変わり、ひらけた窓から外の景色が見えるようになった。ある日の夕方、夕焼けの映り込んだオフィス街がきれいに見えたので、ふと「夕焼けがきれいに見えますね」と同じデスクの人に話しかけたら、「え?」と聞き返された。なんとなく同じセリフを繰り返すのが気恥ずかしくなって、「窓から外が見えるっていいですね」と言い直したら、ああ、みたいな、そうですか、みたいな言葉ではない返事が返って来て、その後に会話が続いたのか、続いていないのかもよく覚えていないくらいに白けて、とにかく、口にしなきゃよかったな、と思ったことだけは確かだった。

仕事をしているあいだは毎秒少しずつ息が詰まるので、休憩時間には屋上へ出る。この時期、晴れている日はぽかぽかと陽が差して、それはその日一日のあいだで浴びることのできる唯一の昼間の日差しで、その中へ出ていくとほっと身体の力が抜けて、和らぐのが分かる。その一瞬がものすごく幸せで、ああ陽の光が尊い、と思うと同時に、こんなにも陽の光が尊い生活ってどうなんだろう、と考える。生活をするために働いているのに、むしろその生活は遠ざかっていくような、そんな感じがする。

働くことに対する私の態度は不遜で、生まれたから生きているし、生きているからには(幸運なことに)明日もまた生きていくわけで、そのためのお金を得るために働いている、ということに尽きる。でもそれは決してネガティブな意味合いではなくて、これが自分の必要としている手段だと納得して当たっている。納得しているはずなのだけれど、「納得」から零れ落ちた端切れが糸くずのようにわだかまって、たまに喉の奥らへんでひっかかる。二十代も後半に突入してから、だいぶ聞き分けはよくなった一方で、それはつまり自分のそのわだかまりと目を合わせないで過ごすということとも同義であったりして、そのことにふと気づくと、ああ、という気持ちになる。仕事を通してひとと関わるのは大好きだから、働きたくない、というのは全くあてはまらないけれど、自分が落ち着く仕事のしかたというのは、そしてそれを実現できる場所を探し当てるのは、きっと一生かかるんだろうな、と思う。

逃げ場を求めて気がつくと本屋にいる。本屋は、いまここ以外の世界をその空間に凝縮してくれているから、何か閉じられたような気持ちになったときは救いになる。本を買って、それをお守りのように携えてはここにひとつ違う言葉が待っている、と確かめて、いざ取り出して読む、その瞬間が淡々と私を次へつなぎ留めていってくれる。その切実さが心からありがたくもあり、悲しくもある。


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