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全ての講師に伝えたいこと

講師であっても偉い先生になるな。
講師であっても教わる姿勢を忘れるな。

研修講師として登壇すると、決して「先生と呼んでください」と言わないのに「先生」と呼ばれます。

先生と呼ばれ続けると、なんだかすごい人のような気がしてきませんか?
【偉い】には次のような意味があります。
・品行や経歴、才能が立派、すぐれた
これは良いことですよね。

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けれど、人間ですから思い込みや勘違い、忘れることだってあります。
ベテラン講師がお話しされているのを聞くと、大変勉強になることばかりです。しかし稀に「あっ、それ違うな」と感じることもあります。
間違っていると言うよりは、時代の移り変わりによって、進化や変化を遂げているにも関わらず、対応できていない。あるいは情報が更新されていないのです。

端的な例をあげると言葉です。
「話のさわり」という言葉の「さわり」は、本来「一番の聞かせどころとされる部分」であったのが転じて、広義では「1つの話の中で最も感動的な(印象深い)場面」を指します。更に転じて「話や文章の要点」とされることもあります。
いずれにしても、「話などの最初の部分のこと」として用いるのは誤用です。ところが現在は半数以上の人が誤用の意味合いで用いています。重要なビジネスシーンでは使用を控えることをお勧めしますが、日常会話では最初の部分として「さわり」と言うことがすっかり定着しました。むしろ正しく用いると相手に違った意味で捉えられる心配があるのです。
それなのに「間違って使ってる!!」と声高らかにおっしゃる方がいる。
情報は常にアップデートしなければなりません。

研修や講演の内容だけではありません。態度も同じことが言えます。
「研修終了のタイミングでタクシーが到着しているように手配してもらわないと」「私は○○万円以下の仕事を受けない」と公言される『先生』も実際にいます。
もちろん安売りはいけません。職人と同じで講師も経験を積めば講師料は上がるべきだし、そのように交渉すべきです。
しかし講師になったばかりの時はどうであったか?それこそ初心を忘れてはいないか。安い金額では引き受けないと決めるのは自由ですが、言い方は気をつけたいものです。

実は【偉い】には、このような意味もあります。
・地位や身分が高い
・程度がはなはだしい

これらは自分自身にも起こりうること。
講師業を長く続けると、「先生」と呼ばれることに慣れてしまう。
講師然として話すことに慣れてしまう。

すると、自分自身で地位や身分が高いと思い、相手に過度な対応を求めるのです。自分は正しいと信じて疑わない。これは避けたいことです。

傲慢にならず、謙虚な姿勢を持ち続けたることを、ここに誓います。
講師の皆さん、共に学びましょう。
重要なことなので、もう一度伝えます。

講師であっても偉い先生になるな。
講師であっても教わる姿勢を忘れるな。

自らを律してnoteに書き残す。

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