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情熱に裏付けされた努力は裏切らない / BLUE GIANT

思えば、「将来の夢」というものを持たなかった人生だった。

「プロ野球選手」「宇宙飛行士」「芸能人」「パティシエ」などなど、少年の頃に一度は思い描くようなあれこれを、私は全てスルーしてきた。様々なことに挑戦し、熱中してきても、夢想とはいえそれを将来の夢にすることは何一つとして、ただの一回とてなかった。

たぶん、それは心の何処かで無意識の諦めがあったからだろうし、「叶わないもの」としてそもそも選択肢にすらなかったからなのかも。いずれにせよ、私は「なりたいもの」を目指すのではなく、「なりたくないもの」にピントを合わせて、人生をたどってきた。

本作『BLUE GIANT』はそういう(ある種)冷めた人間からすると、まるで助走からの全力パンチを食らったかのような衝撃を受けるようなものだった。なりたいものがあって、そのためにすべてを費やすという姿勢が、こんなにも心動かされる・・・・・・生半可な感動じゃない、凄まじい情動がこのフィルムから伝わってきた。


自分の「好き」を信じているか?

主人公、宮本大はジャズが好きで、そしてジャズを信じている。初めて訪れたバー、テイクツーにてアキコと会話したときも、彼(彼女も同様に)はそのまっすぐな心を濁さなかった。あそこまで屈託なくいられるというのは、一部の人にとってはそれだけで眩しい。

自分には、心から「好きだ」と言えるものがあるだろうか。

私達はどこかで、己の「好き」を比較してしまいがちな環境にいる。コミュニティと言えば家庭、学校、習い事ぐらいですんでいた範囲が、現代においてはインターネットのおかげで際限なく広がっているからだ。「俺はクラスで一番スマブラが強いんだぜ」なんて言葉は、今や聞かないだろう。

「自分よりも詳しく作品を愛している人がいる」「自分よりもその界隈に長く居て、理解度が高い人がいる」という当たり前の事実を知り、そこから「自分は彼らに比べて好きが浅い」と考えてしまう人もいる。ついには、「私はコレが好きじゃないのかも」なんて。

もちろん、この一連の思考に意味はない。そもそも「何かが好き」という感情は誰かと比べるようなものじゃないからだ。「なんとなく好き」も、「グッズを全て集めるほど好き」も、同じだ。そこに上下関係なんて無い。しかし、好きだからこそ抱えてしまう「迷い」というものが、現代にはあるのではと感じる。

大は、たとえ自分よりジャズに詳しい人間が居たとしてもそこで張り合うことはない。それは、彼自身が確固たる「己の好き」を信じているからだ。作中の随所に見られる彼の圧倒的な自信は、そもそもの人間性もあるが、それ以上に「本気で自分の好きを信じているから」にほかならないんじゃないかなと思えた。

余談だが、映画では超人みたいに描かれている大も、原作における「仙台編」では様々な苦悩や挫折を経験した。本作で描かれている「東京編」はそれを経ての話なため立派に見えるが、彼も彼で人間らしく凹んだりはちゃんとしていた。だが、いずれにせよやはり根底に「本気の好き」があったからこそ乗り越えられたというのは、言うまでもない。

最強の起爆剤は「情熱」

新人ドラマー、玉田は私が最も好きなキャラクターだ。その理由はやはり、彼が最も一般人に近い存在だからだろう。圧倒的な練習量とたゆまぬ努力、研鑽によって裏付けられた才能の塊の2人に追いすがる、ただのパンピー。自分も例外なく凡人であるからこそ、彼の苦悩や境遇は、痛いほど理解できた。

玉田のすごいところは、絶望の壁にブチ当たった時、そこから逃げずに立ち向かう姿勢にある。「なんとなく」始めたドラムは楽しい。しかし、実際にやってみると自分がただのお荷物であることをまざまざと理解させられる。それはメンバーから告げられる残酷な事実でも、そして実際の演奏でも否応なく。

だが、彼はその苦境において、逃げなかった。逃げずに、自分が今できることはなにか、どうすればいいのかを考え、行動した。ここが彼の魅力であるし、本作で輝いているシーンの1つでもある。

努力というものは地道だ。私も音楽をやっていたからわかるが、ひたすらに基礎と反復練習の繰り返ししか上達の術はない。同じリズム、スコア、ノートをひたすら何度も繰り返す。より粒が揃うように、ピッチを一定に、滑らかに・・・・・・もっと、もっと。

こういったものは楽器に限った話ではない。あらゆる分野において上達の手間はひたすらに道のりが長く、平凡で、退屈だ。新しく始めた物事が1年も続かないという現象は、その本人の資質に問題があるとかではなく、むしろそれが平常なのだと言える。ただひたすらに同じことを、より良く繰り返す・・・・・・上達曲線は比例ではなく、長い階段状なのもキツい。

しかし、その中で1年だけでなく、もっと続けられる人がいる。やがて、周囲から「天才」と呼ばれるまで成長する人がいる。

結局、玉田はそこまでには至れなかった。だが、少なくとも以前とは比較にならないほどの存在感を出せるドラマーに成長した。そこに到れるほどの努力を彼がこなせた理由は、果たして彼が「選ばれしもの」だったからだろうか? いや、そうではない。

彼の中にもまた、大と同じような「圧倒的な情熱」がくすぶっていたからだろう。

ただ漠然と上手くなりたいという気持ちだけでなく、ジャズというものに向き合い、未熟な自分を受け入れ、より高みへと上っていこうとする情熱・・・・・・これがあったからこそ、玉田は大きく成長ができた。小手先の技術や方法論より、もっと大切なものはやはり、滾るほどの情熱なのだ。

練習量に対する効果量をさらに上げるのは情熱。
練習量をさらに増やすための動力も情熱。
成果を伴う努力の根源には、なべて情熱が必要不可欠だ。

そして、玉田関連で一番好きなシーンを1つ。

彼は「裏方として邪魔にならないように」ということを考えていた。あくまでメインは大と雪祈。自分は彼らを支える地盤として、ただ実直に叩く・・・・・・それを徹底していた。彼はもちろん、その境遇に誇りを持っていただろうし、不満はそこまでなかっただろう。厳しいことを言ってくれる中で、称賛してくれる友人に囲まれた演奏は、悪いものじゃなかったはず。だが、表立った称賛がない寂しさもまた、あったはずだ。

しかし、玉田本人を観てくれていたリスナーが存在した。他の誰でもない、玉田を観に来てくれていた人がいた。「初ライブから8ヶ月、君のドラムは良くなってきている。僕は、君の成長するドラムを聴きに来ているんだ」という言葉は、本当に刺さったと思う。

月次な物言いだが、真面目にやっている人のことをちゃんと観てくれている人は存在する。誰も何も言わずとも、彼を観て、応援している人はどこかにいる。見えない彼らに恥じない努力は、どこかで報われるのだ。

粘膜を見せてほしい

雪祈の印象といえば、自分の技術にあぐらをかいた嫌な奴、というのが妥当だろうか。

もちろん、彼の技術もまた尋常ではない努力によって生み出されたものであるのはわかる。ピアノは通常、利き手ではない演奏を強くするのは非常にしんどい、膨大な時間がかかるのに、同じかそれ以上の音を出せているのはひとえにそういうことだろう。

だが、それはそれとしてクールでシニカルな彼は、ややも上から目線の嫌な奴に見える。実際、玉田はそこがどうしても折り合いがつかず衝突寸前まで行っていたわけだし。ただこれは、性根の腐った人間だからというのが理由ではなく、彼には彼なりの「情熱」があったから故だろう。

彼は本気でジャズ界隈を変えようとしていた。大げさではなく、緩やかに腐っていくジャズの業界を憂い、本気でどうにかしようとしていたのだ。そこに、お遊び感覚で入ってきたドラマーに対して優しく指導しろなんて無理だ。気が立ってもしょうがないだろう。玉田が本気になるのは、まだ先だ。

しかし、技術や思いがあった雪祈も、唐突な挫折に見舞われる。ソーブルーの偉い人に酷評された上、メンバーから「ソロがつまらない」とまで言われてしまう事態に。彼の中でこれが大きな体験であったことは間違いなく、そしてようやく停滞していた時間が進んだきっかけだろう。

雪祈の技術は卓越したものがある。しかし、彼はジャズ・・・・・・ひいては音楽の本質である部分をいつの間にか忘れてしまっていた。いや、忘れたのではなく、引き出しの奥に仕舞い込んでしまったのだ。

彼は、まず今は何より「勝つ音楽」が大切だということを説いてきたし、自分の中に最大の目標として据えてきた。ジャズの世界を変えるということは、まずそれができる場所まで行かないといけない。ならば、自分たちが個人として「楽しむ音楽」なんかは後で、少しでも世間的評価を得られる「勝つ音楽」が衆生だとまで。

しかし、それが結局は真逆の評価を得る要因になってしまった。下手な玉田が評価され、自分が酷評されたその理由はシンプルだった。「つまらない」。

芸術は「食せない食べ物」だと言われる。有名なものが必ずしも美味しい(スゴく良い)とは限らないし、個々人に好みが存在する。音楽もそうで、世界的に評価された音楽が自分も好きになるかと言えばそうじゃない。あるいは、いいね数が1万の絵が、いいね10の絵の1000倍も良いものかと言えば、そんなことはない。

そういった、嗜好という曖昧なもので評価される芸術分野において、ただひとつ通用する共通感覚がある。それは「本人の感情は伝わる」ということだ。

どれだけ下手な演奏でも、本人が楽しんでいるならこっちも楽しくなるし、超絶技巧が散らされたとしても、退屈に描いた絵は、どこか寂しい。芸術はまた「言葉ではない言語」だからこそ、本人の思いが良くも悪くも届いてしまうのだ(大はここを本能的に理解しているから、思わず彼の演奏に聞き入ってしまう)。

雪祈は、いつの間にかこの「情熱」がズレてしまっていた。ある程度の人は騙せる「勝つ音楽」を、業界人に看破されてしまったのだ。つまらない、退屈だと。

ここから、彼の長い(映画だとそうでもないけど)羽化までの苦悩が始まる。しかし、それを乗り越えた先の演奏は、これまでのものとは肌感覚で違いがわかるものになっていた。

思うに、雪祈は怖かったんだと思う。自分の思うまま、感情の赴くまま、素直に演奏するということが。内面を見せることが。心からの言葉ではなく、それらしい理論武装で固めるのも、傷つきたくないことの表れと同じで。しかし、音楽はそれじゃ届かない。

吹っ切れた雪祈の演奏は、自由だった。これまでの演奏シーンでは、彼の表情はあくまで取り繕っているように見える仮面。しかし、最後はまるでトリップしているかのような恍惚とした表情に変わっていた。今の演奏に自分の感情を注ぐということが、ようやくできたのかなと思えた。

何かに真剣になる姿は美しい

長々と語ってきたが、私が本作を観て一番言いたかったことはこれだ。演奏が良いとか、気迫を感じるとか、彼らのジュブナイル性が気持ち良いとか・・・・・・いろいろあるが、それらはやはり些末な部分。

人がひたむきに努力している姿というのは、素晴らしく美しい。2時間の上映まるまる、真正面からの努力を突きつけられてはそう思わざるを得ない。やはり説教的な内容より、こういう内面から正されるようなものだと、自然にモチベが上がるものだ。良くも悪くも人間は他人の姿に影響を受ける。図書館に行くと集中できるのも同じ原理なわけで。素直に「自分も頑張ろう」と思えた。

必ずしも努力が報われるとは限らない。何かに取り組んで、それが実を結ぶのか、結ばないのかは、少なくともその時点ではわからない。しかし、やらなければ何も成せないことだけは確かだ。何かが起きるまで続けるのか、それともそれらしい理由でごまかして途中下車するのか、それは自由だ。

ただ、その推進力に関わるのが「自分がそれを好きだという疑いない気持ち」で、そのバカ正直な真面目さを、人は「才能」と呼ぶのだと思う。

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