見出し画像

マダラ蝶【4】

「どうかな?薫さんの淹れるコーヒー、美味しいでしょう?」
 ふうっ、と幸せそうにため息を漏らす咲希に向かって藤永は尋ねた。彼女の笑顔を待ちわびるように、身体が自然と前のめりになる。咲希はコーヒーをもう一口味わった後で、うっとりした表情をして見せた。
「ええ、すごく美味しい」
咲希のその表情に体温がほんの少し上がったを感じて、藤永は慌てて彼女から視線を逸らす。藤永が次の言葉を探していると、咲希が先に言葉を続けた。
「あの絵、すごく素敵ですね。描かれている蝶はアゲハ蝶…?」
咲希はそう言うと、階段とは反対側の壁に掛けられた1枚の絵を指さした。そこには空に向かって羽ばたいているような、青緑色の羽をもった二頭の蝶の絵が飾られていた。淡く塗られた水色の背景とは少し違った独特の羽の青が、妙に咲希を惹きつける。
「ああ、あの蝶はアサギマダラといってね。海を渡る蝶だと言われているんだ」
「蝶が、海を?」
「うん。アサギマダラは渡り蝶で、僕たちの想像以上の距離を旅するんだ。北から南へ、時には海を越えて。まだまだ分からないことも多いようだけど、それが余計に僕は神秘的だと感じる」
藤永は嬉しそうに、そして何かを懐かしむような表情で説明を始めた。

「当たり前の事なのかもしれないけれど、同じ蝶が再び同じ場所へ帰ってくるとは限らない。むしろそんな蝶の方が珍しいくらいで、彼らが毎年どこへ旅をするのかは僕たちには分からないんだ。でも、いつかあの花畑が、蝶たちが帰って来る場所になったらいいなと思っていてね。アサギマダラは、フジバカマの花を好むと言われているんだ」
「じゃあ、あのフジバカマは藤永さんが?」
「言い出したのは僕だけど、僕だけの力では到底無理だよ。地元の人や、薫さんの協力もあって、ようやくあれだけの花畑にまで育てることができたんだ。もともとこの辺りの山では、アサギマダラの飛来が確認されているから、あとは彼らがここを見つけてくれさえすればね」

 咲希は絵の中の二匹の蝶をじっと見つめた。今はまだ絵の中だけの、咲希の想像上の生き物でしかないその蝶。各地を飛び回って様々な写真を撮ってきたつもりだったが、もちろんあの絵の蝶たちに巡り会ったことはない。
 この辺りでは飛来が確認されていると藤永はいうが、少なくとも、咲希がここで暮らしていた間はその姿を目にしたことはなかった。
「…私も会ってみたいな、その蝶に」
 小さな身体で海をも渡るという不思議なその蝶を、咲希はこの目で見てみたいと思わずにはいられなかった。咲希の言葉に、藤永は優しい笑顔を向ける。
「君はいつここを立つ予定?」
「決めてない。明日かもしれないし、明後日かもしれない」
「そうか。もしかすると、君と蝶を会わせてあげられるかもしれない。保証はないけど、なんとなくそんな気がするんだ。だからここにいる間、君の時間を僕に少し分けてくれないか?」
 藤永の真剣な眼から、咲希は目を離すことができなかった。それはまるで、甘い蜜に誘き寄せられた蝶のように。

「夕方、もう一度ここに来られる?いいことを思いついたんだ」
 そう言い残した後、藤永は人と会う約束があるといって店を後にした。一人になった咲希はおもむろに立ち上がると、浅葱色の羽を持つ蝶の絵に近付いていく。藤永の言葉が、繰り返し頭の中で再生されていた。咲希は何に対してだか分からない胸のざわつきを振り払うようにして、今度は窓の外の山々に目を向けた。
 初対面から急に距離を詰めてくるような人間は基本的に得意ではない。それが男性であっても女性であっても、そういった相手には自然と心の壁を作ってしまう傾向が咲希にはあった。人の人生を面白半分に探ってくるような人間も少なくはないし、生い立ちを聞いて、突然態度を変えられるのも好きではなかった。
 だが、不思議と藤永にはそういった嫌悪感は感じない。むしろ、咲希の心の壁を溶かしてすり抜けてくるような不思議な感じがする人だった。人との出会い方というのは様々だが、これ程穏やかで、心の内側をさらけ出せるような感覚になったのは随分と久しぶりのことのように思えた。

ほんの少しだけ窓を空けると、爽やかな風が部屋の中に入り込んだ。
「気に入っていただけましたか?」
不意に後ろから声を掛けられ、咲希はハッと振り返る。そこには優しく微笑む薫の姿があった。
「ええ、とても。すっかり長居をしてしまいました」
「私も、ここから見る景色がすごく気に入っているんですよ。緑の木々が紅や黄色に色を変えて、次第に一面真っ白の銀世界に変わっていく。そんな四季の移り変わりを楽しめるなんて、日本人でよかったー、って思ったりして」
「ああ、なんだかそれ分かります。仕事柄、日本中色んなところを見て回っているんですけど、季節によって表情を変えていく自然の光景を目の当たりにすると、幸せだなあって感じるんです。今日も目の前にはこんなに美しい景色が広がっていて、私はそれを感じることができている、って。なんだか当たり前すぎて、おかしな話ですよね」
 互いの視線が重なり、二人からはどちらからともなく笑いがこぼれる。
「ここに来る途中のあの花畑、すごく綺麗でした。藤永さんから、薫さんも携わっていると聞きました。薫さんもやっぱり、マダラ蝶が見たくて?」
薫は少し驚いた表情を見せたあと、壁にかけられた絵を見ながら話を始めた。

「藤永さんが誰かにその話をするなんて珍しい。あの絵を描いたの、私のお姉ちゃんだって話は聞いた?」
咲希は黙って首を横に振る。
「私のお姉ちゃん、絵を描く仕事をしていたんです。感性だけで生きているような、自由な人だった。でも、病気になっちゃって。病院に居るのは耐えられない、私は最後まで自由に生きたいんだって、横浜からひとりこっちに戻って来ちゃったの。藤永さんの仕事に目途がたったら、こっちで一緒に暮らす予定だったんだけど、思ったよりも早くお姉ちゃんの病状が悪化して…。最後に描いてたのが、あの蝶の絵」
 薫はそこまで話をすると、一瞬しまったという表情をして見せた。咲希はふと、あの絵を眺める藤永の表情を思い出していた。懐かしむような、切ないような、それでいてとても優しいその眼差しが、咲希の脳裏に鮮明に思い起される。
「うっかり口が滑っちゃったから言うけどね、藤永さん、お姉ちゃんの恋人だったの。マダラ蝶がここに来るようになればいいなっていうのは、一種の願いみたいなものなのかな。残された私たちが前に進むための」
薫の笑顔は、それまでとは違って少し弱々しさを帯びているように感じた。

【3】◀︎ / ▶︎【5】

皆さんからの応援は、本の購入や企画の運営に充てさせてもらっています。いつも応援ありがとうございます!オススメの1冊があれば、ぜひ教えてください。