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マダラ蝶【3】

 今から二時間ほど前、見慣れたはずの景色の中で、藤永は見慣れない青色の自転車を目にした。不思議に思ってチラリと横に目を向けると、そこにはくるり、くるりと身を翻しながらカメラを構える一人の女性の姿があった。
 まるで蝶のようだ、と藤永は思った。そんな女性を気にかけながらも、藤永はくるみ堂へと車を走らせる。くるみ堂は昨年の春に、藤永がオープンした店だった。とはいってもそこは藤永の自宅であり、職場でもある。
 昔ながらの建物をそのまま残し、団らんを目的にした一階のカフェスペース。一方で二階は全面的にリフォームを行い、生活スペースとワーキングスペースの両方を確保した。ログハウスのような雰囲気は藤永のこだわりで、ワーキングスペースに関しては、お客さんも自由に利用ができるようになっている。

 今から6年ほど前、藤永は横浜からこの土地に移住してきた。新鮮な野菜を求めているレストランと、新鮮な野菜を作る農家の人々。藤永はそういった、まだ繋がっていない需要と供給を結びつける仕事をしながら生計を立てており、最近では地元の方と共に、食べられる花「エディブルフラワー」の生産にも積極的に取り組んでいた。
 藤永が地元の方と深く交流するようになったのはここ数年のことで、こちらに越してきた頃の藤永は、深い哀しみに打ちひしがれ、まるで抜け殻のような毎日を生きていた。
 恋人の死。ここは、亡くなった彼女の生まれ故郷でもあって、ここでの暮らしは彼女が最後に望んでいたことでもあった。結局、この土地で彼女と暮らすことは叶わなかったが、藤永はひとりこの地で生きていくことを決めた。

「おはよう、薫さん。今日もはやいね」
 カラカラッと玄関の扉を開け、藤永は仕込みをする薫に声を掛ける。薫は亡くなった藤永の恋人、守山菜月もりやまなつきの妹だった。姉の菜月よりも先に結婚していた薫には、悠太という旦那さんと、2人の息子がいる。
 藤永がこちらに越してきてからというもの、守山家のご両親と薫たち飯山家の人々は、藤永を家族の一員のように接してくれていた。菜月という大切な存在を失ったことで築かれた悲しくも温かいこの絆は、血の繋がりのない藤永に、生きる希望を与えてくれた。

「おはようございます。あれ、藤永さん。なんだか今日はご機嫌ですね」
藤永は、見透かしたような薫の言葉に思わず肩をすくめる。
「参ったな。薫さんには、隠し事なんてできやしないね。実はさっき、そこの花畑で素敵な女性を見かけてね。この辺りの人ではないような気がしたけど…、もしかしたら僕の幻かもしれない」
藤永は冗談っぽくいったあと、二階の方へと足を進めた。
 栗色をした短い髪に、青緑色のワンピース。流石に顔までは見えなかったが、藤永ははぜか、ひと目見たあの女性に強く興味を惹かれていた。蝶のような女性。藤永の頭の中にふと、亡くなった菜月の言葉が蘇った。『私は蝶にでもなって、あなたのところへふらっと遊びに行くから』ただし、気が向いたらね、と戯けてみせた彼女の笑顔がパッと浮かんで消えていく。
 藤永はパソコンを開いて一通りメールをチェックしたあと、意を決したように階段を降りた。

「薫さん、ちょっと出てくるね。すぐに戻るから」
 そういって藤永は、店の前に停めた白のワゴンに乗り込むと、フジバカマの広がるその場所へ車を走らせた。ほどなくして、先ほどと同じ場所に青色の自転車が止まっているのが目に入る。藤永は自転車とは逆方向、道路を挟んだ端の方に車を寄せゆくっりとエンジンを切った。
 車を降りれば、冷たさを纏った秋の風がふわりと藤永の身体を撫でた。藤永の眼はすぐに、ピンク色の世界に舞う青に釘付けになる。右を向いていたかと思えばくるりと左側へ。突然姿が見えなくなったかと思えば、次の瞬間にはカメラを空に向けながら現れたりする。華奢な腕には不釣り合いなほど大きなカメラを軽々しく操りながら、彼女は夢中でその世界をカメラに収めていた。

「こんにちは」
 どうして声を掛けたものかと悩んだ藤永は、思い切って遠くから声を掛けた。しかしその声は、彼女には聞こえていないようだった。目の前の彼女は、相変わらずファインダー越しの世界に夢中のようだ。もう少し近付いてみようか。藤永は少しずつ、彼女の方へと歩いていった。
 そして、藤永が再び口を開きかけたとき、彼女は突然くるりと藤永の方に背を向け、後退を始めたのだった。

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