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マダラ蝶【5】

 日が暮れる少し前、咲希は再びくるみ堂へと向かった。脱色された白色の三日月が、空にぽつんと浮かんでいる。太陽が沈む頃の風はひやりと冷たく、白色のカーディガンが身体を温めた。
 カフェの前に藤永の白いワゴン車が停められているのを見つけ、咲希は自転車のスピードを少し速める。今朝ほどOPENと書かれていた看板は、CLOSEの文字に書き換えられていた。おそるおそる入口の扉に手を掛けると、朝と同じようにカラカラッという音を立てながら扉が開いた。
「こんばんは」
少し遠慮がちに、咲希は人の存在を確かめる。「はーい」という薫らしき女性の声が聴こえ、咲希はほっと胸を撫で下ろした。それからしばらくして、カフェの方から藤永がゆっくりと姿を現す。
「突然の誘いだったのに、来てくれて嬉しいよ。ありがとう」
 藤永は、咲希をカフェの方へと案内した。襖が外されたひとつながりの畳の空間には、テーブルやソファーが並べられている。畳にソファーというのはどうもしっくりこない気もするが、高齢者も多いこの辺りの地域では、正座をせずに椅子に座れるというのは意外と好評らしい。
 部屋の奥に進んでいくと、そこには明らかにリフォームされたであろう木の空間が姿を現した。二階と同じようなログハウス調のその部屋には、真ん中に掘りごたつのような穴が開けられている。
 くり抜かれた中心部には、ブロックが詰まれ、上にはバーベキュー用の銀色の網が敷かれていた。どうやらこの部屋は裏庭と繋がっているようで、ガラスの外にはウッドデッキが設置されているのが見える。
 都会にあって田舎にないもの。田舎にあって都会にないもの。ちょうどその中間に位置するような不思議な世界に迷い込んだような空間だった。

「この部屋は…?」
「皆でバーベキューなんかを出来るように、改装したんだ。穴の部分にフローリングを被せれば普通のフラットな床になるから、普段は個室を希望されるお客さまに利用してもらっていてね。この空間は、意外と小さい子供のいるママさんたちに好評なんだ」
藤永はそういって笑顔を見せた。
「というわけで。せっかくだから薫さんとこのご家族も誘って、皆でバーベキューなんかしたら楽しいかと思ったんだけど…どうかな?」
「すごく素敵。色々とありがとうございます」
 咲希は藤永に向かって、丁寧に頭を下げる。それから程なくして、玄関の方から「こんばんわー」という男の子の声が聞こえてきた。姿を見せたのは、小学校1年生のれんと、5歳のあおい。薫の2人の息子たちだった。彼らの後ろから、身体つきのいい短髪の男性が姿を現す。男性は藤永と何やら会話をしたあとで、咲希の方にぺこりと頭を下げた。
「はじめまして、飯山悠太いいやまゆうたです。よろしく」
咲希は名前を名乗ったあと「今朝も、薫さんにお世話になりまして」と付け加えた。

「さあ、楽しい夜の始まりだよ」
藤永は嬉しそうに笑うと、ブロックに囲まれた炭にゆっくりと赤い火をつけた。

♦︎

 ピーマン、茄子、カボチャ。鉄板の上には色とりどりの新鮮な野菜たちが並んでいる。この辺りには、あまり大きなスーパーがない。どの家庭もそれぞれに畑で作物を作りながら生活をしているため、ある程度は自給自足の生活が成り立っているからだ。
 今夜ここに並んでいる野菜も悠太の両親が畑で栽培したもので、本日収穫したばかりの新鮮な野菜ばかりだった。
 咲希にとっては、コンビニやスーパーまでの距離が遠いことは不便以外の何者でもなかったが、こうして艶の良い野菜たちを目の前にすると、農業という生業の偉大さを実感させられた。
「ほら、野菜もちゃんと食べるのよ」
 薫は2人の息子たちを忙しなくお世話しながら、手際よく網の上の野菜をひっくり返している。焼き上がったお肉に嬉しそうにかぶりつき、目を輝かせる子供たちの姿を見ていると、自然と心が明るくなる。どうやら葵はピーマンが苦手らしい。差し出された緑色のそれにプイッと顔を逸らす姿も、見ていてまた愛らしかった。笑い声の絶えない温かな空間。幸せな家族の団欒がそこに広がっていた。
「ごめんなさいね、あの子たち騒がしくて」
申し訳なさそうにいう薫に向かって、咲希は横に首を振った。
「そんなことないですよ。なんだかこんな風に賑やかなのは久しぶりで、とても楽しいです」
「ご家族とはあまり会わないの?」
「うちは両親が離婚してしまっているので。こういう温かい家庭って少し憧れちゃう」
こういった話は正直あまり得意ではない。どんな風に答えても相手に気を遣わせてしまうし、咲希の生い立ちは、気軽に人に話したいと思うようなものでもなかった。
「ねえ、咲希さんのおばあさんの家って、もしかして大きな柿の木がお庭にあったりする?」
「あ、はい。そこを少しいったところの」
 咲希は手に持ったビールをグイッと喉に流し込んだ。田舎というのは、良くも悪くも他人の家の事情がすぐに分かる。
 親戚関係、子供の勤め先、特に咲希の母親のように出戻ったという話は、この辺りには周知の事実だったに違いない。もちろん母が、その後どのようにこの世を去ったのかということも。ここで生まれ育った薫にも、その辺りの事情は耳に入っているのだろう。薫はそれ以上何も言わなかった。
 もしかすると、姉を失った薫自身、咲希と似たような気持ちを抱くことがあるのかもしれない。憐れみも好奇の色も浮かべずに咲希を見つめる薫の瞳は、とても澄んでいるように見えた。

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