カタリ(本間文子) 第4回

長嶋有さん(第3回佳作)や福永信さん(第1回大賞)、戌井昭人さん(第1回審査員特別賞)など、現在も活躍する作家も受賞した、リトルモアのストリートノベル大賞。本間文子さんは、その最後となる第10回で大賞を受賞し、デビューしました。12年ぶりに書き下ろした本作は、画集の自費出版を勧める「カタリ営業」というブラックな仕事に就いている20代女性が主人公。今回は、いよいよ自費出版のリアルな営業トークが明らかになります。自費出版ビジネスの裏側を知りたい人、営業職に就いている人、新しい視点の「お仕事小説」を楽しみたい人、必読!

3 中園ブルー

 3月1日。奏は晴れて真美術出版舎の社員になった。
 始業は10時から。自宅から会社までは1時間ほどかかるので、9時には家を出なければならない。朝の弱い奏はいつもギリギリに家を飛び出す。確か面接の日は駅から10分ほど歩いた。記憶を遡りながら前回と同じ道をたどる。商店街は前回よりも買い物客の姿が多く、昭和の雰囲気に満ちた喫茶店はドアの奥に人の気配がした。こじんまりした花屋の中では、店員が花束を作っている。小さな公園には犬をつれたお爺さんがいるだけで、他に誰もいない。まだ実感が湧かないが、いつかこの風景がしっくり馴染むときが来るのだろう。
 マンションの階段を上ると緊張し始めた。インターホンを押すと、前回と同じリンゴスターに似た男性が迎えてくれた。
「今日からお世話になります、棚絵です。よろしくお願いいたします」
 奏が頭を下げると、リンゴスターも頭を下げた。
「野辺です。よろしくね。今日はとりあえずこれをはいてください」
そう言うと、どこの家庭にもあるような、パステルピンクのチェック柄のスリッパを勧めた。来客用なのだろう。
 キッチンのテーブルの上には印刷会社の名前入りのカレンダーが無造作に置かれていた。シンクの前では背の高い男性が、少し背中を丸めて煙草を吸っていた。耳の後ろで束ねている髪は癖が強く、まるでブロッコリーのようだ。
「初めまして、棚絵です。よろしくお願いいたします」
 奏がそう言って頭を下げると、その男性も名乗った。
「あ、どうも、よろしくお願いします、浜元です」
 少しだけトーンの低い関西弁だった。
 社員は32歳の野辺誠(のべ・まこと)と27歳の浜元桔(はまもと・きっぺい)、社長の黒澤(くろさわ・あつし)の3人だそうだ。昨年の春に黒澤が同業他社から独立してこの会社を立ち上げたとき、小中高と同級生だった野辺を大阪から呼び寄せたという。夏にはさらに地元の後輩である浜元を呼び寄せ、3人体制になった。
 野辺は浜元を「ハマちゃん」と呼び、彼に話しかけるときは完全な関西弁に戻る。親しげな雰囲気が滲み出ている。2人とも営業マニュアルが染みついていたり表裏があったりするような人たちではなさそうだ。絶対に仲良くならなければならないという無言の重圧も感じなかった。
 奏は奥の部屋に通された。2つの部屋の仕切りを外して1部屋にしている。合計で13畳前後というところか。キッチンと同じように、さっぱりと整った、明るい印象を受けた。必要なものだけが選ばれているようで、無造作に積み上げられている雑誌とペンも、どこか様になっている。そこは営業部と編集部になっていた。奏と浜元が企画営業を担う。野辺は入金確認や書類発送といった事務を主に担当しており、画集の編集は黒澤がしているそうだ。
 黒澤の机は部屋の奥に独立していて、部屋の中央には4つの机が集まっていた。野辺と浜元が隣り合わせに座っていて、浜元の正面が奏の席だった。それぞれにパソコンと電話機が1台ずつ引いてある。
 本棚には初めて目にするような美術関係の月刊誌が、厚さ5センチほどのものから薄い冊子まで並んでいた。ざっと見たところ5、6種類だろうか。すべて半年分ストックしているという。他にも営業資料として、美術家の名前はもちろん住所や電話番号といった個人情報が掲載されている年鑑や画集、公募展の名簿が10冊以上あった。名簿は、公立美術館で定期的に開催される展覧会場で、参加している美術団体が無料配布しているそうだ。奏と浜元はそこに載っている情報を基に電話をかけていく。
 野辺は面接のときと同じパンフレットを奏の前に開いた。
「棚絵さんには、しばらくこの画集の参加者を集めていただきます。といっても電話をかける相手はほとんどがこういうことに慣れている人です。まったく何も知らない人を相手にイチから説明していくわけじゃないので、安心してくださいね。この前見てもらったウチの画集に参加してはる人もいるし、多かれ少なかれ他の会社の同じような企画に参加したことのある人たちなんです」
 営業する企画は今のところ年に3~4件。画集の出版と展覧会があって、それらはすべてに主催する海外の美術団体があり、中心となる評論家たちがいる。面接のときに名前が出たジェイコブ・マルコビッチを中心とした、会社が特に懇意にしている数人の評論家がレギュラーで、他のメンバーは企画ごとに入れ替わるそうだ。
 美術評論家というと奏は椹木野衣(さわらぎ・のい)しか知らない。高校生の頃に友達と行ったギャラリーの売り場で、表紙に惹かれて買ったのが、彼の現代美術に関する著書だった。それを1冊読んだことがある程度で、それだって難しく感じて何カ月もかかった。あらためてパンフレットを見てみても、そこに載っている外国籍の評論家など初めて目にするものばかりだった。
 ああ、もう1人知っていたか。野見山の父親が、高名な美術評論家だと社内で聞いたことがあった。野見山と打ち解けようと苦心していた頃、その話を振って失敗したことを思い出した。
「野見山さんのお父様って、高名な美術評論家なんですってね、すごいですね」
 奏が無邪気にそう言うと、野見山の目が鋭く光った。「へえ」と、口の端にイラだったような笑みを浮かべて、いつもに増して奏を睨みつけながら言った。
「すごい? 何が? 棚絵さんはそういうのにも、興味があるの?」
 きっと、触れてはいけない話題だったのだ。動揺から、奏の返事は歯切れの悪いものになった。
「あ、はい。その、高校生の頃に、友達とギャラリー巡りをするのが趣味だったんです」
「へえ、誰のファンなの?」
 奏が好きな現代美術家の名前をあげようとすると、野見山は続けた。
「いつ頃の、何という作品が好きなの? また、その理由はなぜ? その人に影響を受けた作家もいるんだろうか」
 答えられない奏を、野見山は鼻で笑った。
「遊びで見てるだけじゃ、雑談の役にも立たないよね。あんたのために言うけど、他人のプライバシーに立ち入って行くなら、せめてそれなりに話せるようにしておかないとダメでしょう。そもそも何のためにさっきの話題を振ったの? 僕がわざわざ質問してあげたって拡げられないんじゃない。へえ、ああそう、で終わる程度のことじゃないですか。だからあんたはダメなんだよ」
 思えば、野見山の厳しさが増したのはこの直後だった。1つの断片から連鎖して、記憶が噴き出してきそうになる。奏は固く目をつぶると、頷くふりをして頭を軽く振った。でも、確かに野見山の言う通りかも知れない。これからは、ちゃんと身に付くように勉強しよう。 

 黒澤が出社すると、パンフレットを基に企画や営業方法について簡単なレクチャーを受けた。
 画集のタイトルは「アールヌーベルヴァーグ~日(に)~」。予定されている装丁は実に豪華なデザインだった。製本後は奏でも聞いたことのあるような世界各国の有名美術館へ寄贈される。売上金と作家が参加する際に支払う協賛金から一部をチャリティに充てるべく、「絆」をテーマに参加者を募っているという。
 参加が決定した後は、作家側で作品をデジカメで写したデータ、あるいはポジフィルムを郵送してもらう。ふと奏は違和感を覚えた。以前テレビで見たある現代美術作家のドキュメンタリー番組では、画集を作る際、プロのカメラマンがライティングにずいぶんと配慮しながら撮影し、デザイナーなどの制作スタッフも色味などを何度も調整していた。データを印刷所に入稿した後も、印刷所から色校正という実際の紙に刷られたサンプルが届き、作家本人はもちろん制作スタッフが入念にチェックしていた。
「こちらで作品を撮影しなくていいんですか?」
 奏の疑問に、黒澤が答えた。
「いいんです。僕たちは基本的に、別の画集や雑誌に掲載経験のある作家に声をかけていきます。なので、すでにプロが撮影したデータを作家が持っている場合がほとんどなんです。それに、所属している団体の展覧会図録に掲載するため、作家側で撮影を済ませている場合も多いんですよ」
「そうですか。二次使用という形ですか?」
「そうです」
「あ、そうするとコストが抑えられますね」
「そう。さすがですね。では、話を続けますね」
 そういうと黒澤はレクチャーを続けた。美術家と電話がつながったらまずは「受賞おめでとうございます」と伝えるように言った。そして次にジェイコブ・マルコビッチの名前を出して、彼があなたに大変注目しているので是非このアールヌーベルヴァーグ国際名誉賞を受けて画集に参加してほしいと営業するように。
「わかりました。これってつまり、自費出版なんですかね?」
 奏がそう聞くと、黒澤は野辺と顔を見合わせて苦笑した。
「まあ確かにそうなんですけど、自費出版っていう単語は絶対に口にしないでくださいね」
「はあ」
 どこか癪然としない奏に、黒澤は言った。
「どの出版社でもそうですが、本を作るには製作費がかかります。特にこの画集は、評論文もつくので高額なんです。作家が掲載料を負担するのはよくあることなのですが、相手はいかんせん芸術家なので、プライドが高いんです。誤解を恐れずに言えば、自費出版というと、お金さえ払えば誰だって、どんなに下手くそなものだって本になるという印象を受けるでしょう。そう聞くと誰だって気持ちが萎えちゃいますよね。棚絵さんに電話してもらうのは、わざわざ選ばれた受賞者なのですから、この辺りの表現は丁寧にしてください」
「私が電話するのは、受賞者なんですね」
「ええ、そうです。この本棚にある資料に乗っている人たちは、ほぼ全員が受賞者で、基本的には誰に電話してもらっても大丈夫です」
「この、マルコビッチさんは、どこで賞を与えるんですか? よく新人賞とか何か、授賞式の写真をニュースでも見ますが」
「この賞は特に授賞式はないんです。その代わりに受賞者だけで画集を作ります。それをもって受賞者のお披露目となるんです。ああ、そうだ、医学とかで『学会に発表する』って聞いたことがありませんか?」
「あります」
「あれは、ある場所で学会が開催されて、そのときに会場の壁にポスターで掲示することも、発表したことになりますし、学会誌に掲載したことも、発表したと言うんです。それと同じです。この本棚に並んでいる本は学会誌という位置づけだと考えてください」
「わかりました」
「また、本来なら画集に作品を1点掲載するのに45万円かかるところを、先生の場合は助成金が出るので、特別に1ページ30万円ですって伝えてください」
「はい」
 奏が知らなかっただけで、そういう仕組みが普通なのかも知れない。奏がパンフレットを見直していると、黒澤は本棚から厚さ5センチほどの美術誌を抜き取った。パラパラと開く。
 つと、ある洋画に目を留めた。
「お、佐伯また出とるやん。最近あんまり見いひんかったのに、復活したんやな。ほらハマちゃん見てみい。佐伯利通(さえき・としみち)、また出とるやんけ。言うたやろ、この人は太客やって」
雑誌を見せられた浜元は、別の雑誌を数冊広げているところだった。顔を上げる。
「何回も電話したんですけどね。その企画を受けたからお金がなくなったんちゃいます?」
「ホンマか? ほなら俺が行ってみようかな」
 広げた雑誌の中央に、クリスタルでできた虎の文鎮を置くと、黒澤は奏に操作方法を説明しながら、パソコンの共有ファイルを開いた。パスワードは簡単なもので、中には名簿などのデータベースがあった。名前や企画名など特定の条件で呼び出すと、状況がつぶさに把握できる。
 雑誌に大きく載っていた佐伯の名前を検索欄に入力すると、佐伯が過去に参加した企画や支払状況などが書かれていた。企画名はズラリと並んでいる。
「棚絵さん、今から僕がこの人に電話をかけるので、横で聞いていてくださいね」
 そう言いながら電話をかける。
「先生、ごぶさたしております。グローバル・アート出版社でお世話になりました黒澤です」
 独立して会社を立ち上げたことをはじめ、世間話をすると黒澤は本題に入った。レクチャーで言っていたポイントを盛り込みながら作品を絶賛している。もちろん自費出版という言葉は使わずに、助成金が出るとも言っていた。先日行われた勉強会でマルコビッチ氏がどれだけ佐伯の作品を絶賛していたかを横で聞きながら、奏は感心した。
 きっとすごい画家なんだろうな。知らなかったけど、こういう人の場合は自費出版という言い方が失礼にあたるのかも知れない。
 10分もすると電話は切れた。佐伯は30万円を2回に分けて振り込むという。
「やるやんけ。だから言うたやろ、この人はやるんやって」
 そう言うと黒澤は野辺を振り返り、こう続けた。
「のんさん、30万で契約書を送ったって。今月と来月の2分割やて」
「はい。先月まではあれだけ電話してもアカンかったのにな。すごいわ」
「でも確かに前ほどの勢いはなくなったかもしらんわ。分割言うてはるからな」
 その後、黒澤は奏とセールストークを練習した。
 黒澤は、奏のために営業トークの簡単な台本(トークスクリプト)をつくってくれていた。「電話口ではできるだけテンションを上げて明るい声を発しましょう」という一文から始まるその台本は、電話を受けた作家との対話方式になっていた。
 奏は台本を両手に持ち、作家役の黒澤に向かって声に出して読み上げた。
「おめでとうございます! 今回、黒澤先生は、名誉あるアールヌーベルヴァーグ国際名誉賞に輝かれました」
「そうですか。でも、応募していないので身に覚えがないんですが」
「アールヌーベルヴァーグ国際名誉賞は、展覧会やメディアなど、世に発表されたすべての作品を対象とした国際名誉賞なんです。高名な評論家である、ジェイコブ・マルコビッチ先生を中心とした、フランスのさる美術団体が黒澤先生を選定されたのです」
「そうですか」
「私も勉強会で、美術雑誌(または展覧会)で先生の作品を拝見しましたよ。とても素晴らしい作品ですね。あの作品をつくられた背景にはどのような思いがあったのでしょうか?」
 台本ではこれ以降「自由に、とにかく誉める!」と書かれ、下に「ポイント」としていくつか要点が箇条書きにされている。
・先生にしか表せない、素晴らしい世界観ですよね
・精巧に描かれた風景の向こうに、今の私たちが目指す未来まで描かれているようです
・何とも言えない表情ですね
 何度か会話を繰り返しながら、セリフを奏の言いやすいように変えていく。つかえずに言えるようになると、今度はテーブルの上に積んである美術系の月刊誌の中から最新号を開き、そこに掲載されている絵を誉める練習をした。誉めるポイントに指定はなく、奏が感じたまま自由に表現してよかった。作家は営業をし慣れた人たちから日々たくさん誉められているので、業界に慣れていない奏の視点はより新鮮に受け取られる可能性が大いにある。そのため、怖がらずに感じたまま伝えるように、と黒澤は言った。
「先生の作品を拝見していると、私まで一緒に空を飛んでいるような気分になります」
「豪華絢爛でありながら凛としていて、こういう建物に住んでみたいです」
 奏がどんなに子どもっぽい表現をしても黒澤は笑顔で頷きながら聞いた。野見山のように、重箱の隅をつついてクドクドと否定しなかった。練習を繰り返すうちに、奏の心は落ち着き始めた。次第に恐れは消えて、自由に感じたまま口にできるようになっていた。黒澤は、ときどき抑揚をつける箇所などをアドバイスした。奏は台本に、その要点を書き込んだ。
 相手にはマルコビッチの要請で特別に声をかけていると言いながら、実際は社内にある雑誌や名簿を見て、目ぼしい人に手当たり次第に電話をかけていく。対象となる美術家はたくさんの賞を受賞しているにもかかわらず、奏は今まで一度も作品を見たり名前を聞いたりした記憶がない。
 でも、すべて奏が知らないだけなのだろう。
「あのう、先ほどフランスで勉強会があるっておっしゃっていましたよね。定期的にあるんですか?」
 奏が質問すると、黒澤は再び野辺と顔を見合わせて苦笑した。
「ないない。強いていえば今こうして話していることが、勉強会なんです」
 奏が覚えた違和感が腑に落ちるまで、それほど時間はかからなかった。
 実際には、マルコビッチを始め、パンフレットに一覧されている評論家など誰一人として存在しないのだった。セールストークの内容は営業社員にゆだねられていて、極端な言い方をすれば、売上につなげるために相手を誉めるなら何を言ってもいい。これが不況のただ中にありながら未経験者でも月給が高く、他に能力給まで別途支払われるという待遇のよさの理由だった。
奏が入社したのは、「ほめほめ詐欺」や「ほめあげ商法」と呼ばれる「騙り商法」を行う会社だったのだ。
 もしかしたらこの仕事って、法に触れることなのかも知れない。
 やっと安全な場所にたどり着いたと思った途端、床が腐っていることに気づいたような、えも言われぬ不安が奏を飲みこんだ。
 鼓動が高鳴ったが、すがるような思いもあった。もし法に触れる仕事であるならば、求人情報サイトに堂々と広告を載せるだろうか? 拭いきれない疑惑をおいて、目の前で現実が流れるように進んでいく。

 要約すると、真美術出版舎はアマチュアからプロの美術家を対象にした自費出版の会社であり、パッと見は煌びやかではあるが、美術書としては粗悪ともいえる印刷の画集を制作している。1冊への掲載料は参加者によりまちまちだが、掲載料は1ページ当たり30~40万円。
 問題は勧める際に相手に自費出版であることは明示せず、海外の賞を受賞したと言って祝う。さらに架空の美術団体の評論家ジェイコブ・マルコビッチなどを騙り、すべてはあくまでもマルコビッチなどの推薦であること、日本政府からの助成金が割り当てられるため対象者は他の参加者よりも費用面で優遇されていると告げることだ。また、この画集の出版は社会貢献事業の一環であるとも謳われていた。
 確かにパンフレットの隅には小さく、「人物設定・構成および制作:真美術出版舎」と明記されているし、できあがった画集は海外諸国の主要な美術館へ寄贈しているそうだが、実際に郵送するのはパンフレットに記載されている内の半分以下、もしくは皆無といってもいい件数なのだそうだ。

――これは数カ月後になるが、架空の美術団体が主催で展覧会も行われた。会場は安価で借りることのできる公的な会場であるにもかかわらず、参加費用は10~30万円で、出展品のサイズは30号までの作品に限られていた。
 とはいえ、30号と言われても奏にはピンとこなかった。趣味でギャラリーを見て回っていた経験から、サイズを「号」で表すことはなんとなく知っていたが、そのときには、正確な大きさを意識していなかったのだ。
「すみません、30号ってどのぐらいの大きさなんですか?」
「縦91センチ×横60.6~91センチの、縦長の長方形から正方形にかけてのサイズだよ」
「え、横幅が違うんですか」。大変お恥ずかしいのですが、と慌ててつけ加える。黒澤は笑った。
「何も恥ずかしいことはないよ。何でも聞いてくださいね。でも、その辺りは覚えなくていいんですよ。大まかに0号は絵ハガキ、6号はコピー用紙のA3ぐらい、100号ともなると襖1枚半くらいと、頭の片隅においていただければ大丈夫です。というか、別に忘れてもらっても大丈夫です」
 黒澤がパンフレットを閉じるとき、「書」と「水墨画」のページに奏の目が留まった。
「そういえば、絵は今教えていただいた洋画だけではありませんね」
「さすが。その通りです。日本画のサイズは洋画と同じと思ってください。ただ、他に、毛筆と墨汁で文字や絵を描く、書と水墨画という造形美術があります」
 黒澤はそう言って、パンフレットの「書・水墨画」のページを開いた。先ほどとは違い、1行にサイズと呼び名がまとめて書かれている。ただ、行数は多い。最初の行を指しながら、黒澤は言った。
「この表によると、主に流通している規格は19種類みたいですよ。ただ僕たちは、こんなに多用なサイズを扱うことはありません。絵画なら30号が上限だと覚えてもらえれば、それで大丈夫です。書作品でもそのぐらいと伝えれば、相手はこれまでにも展覧会に出したことがある方ばかりなので、どのくらいのサイズを準備すればいいのかわかっていますよ」
「そう言っていただけると安心します」
「まあ、中にはせっかく大作を描いたものだから、それを出展したがる人もいます。でもそのときは、『真の才能はコンパクトなキャンパスに無限の世界を描く』とか何とか、もっともらしいことを言って断ってください。展示スペースには限りがありますからね」
「わかりました」
 要するに、30号ぐらいのサイズであれば運搬がしやすいし、限られたスペースに効率よく展示できるので、参加者の数を多くできるのだ――。

 話を戻すと、黒澤のように同業他社から独立しては次々と新会社を設立するので、このような騙り商法の会社はいくつもあるそうだ。そのため同時期に複数社と契約している参加者が多い。さらに企画は1社当たり複数あるので、契約から支払開始まで間が空くことや、支払を長期分割する場合もある。
 この日、奏に手本を見せようと黒澤が営業した佐伯も、そのような参加者の1人だった。数年前から半年前までほとんどの企画に参加している。ある時期を境にピタリとどの会社の企画にも参加していなかったが、どうやら最近また始めたようだ。
 たぶん、この仕事は、法に触れる。
 落胆とも恐怖ともつかない感情に翻弄されていると、黒澤は奏を急かすように笑顔で言った。
「じゃあ、次は棚絵さんが電話をかけてみてね。この中園万里子さんっていう人がいいかな」
 そう言って黒澤は、美術系の月刊誌に掲載されている1枚の洋画を指した。
 今日はせいぜい黒澤を相手に営業の練習をして終わるのだろうと高をくくっていた奏は、突然そう言われて驚いた。みんなは飄々としたもので、中園の絵が掲載されている複数の雑誌を、奏の前に広げた。
 合計4冊の内3冊に同じ作品が掲載されていた。藍色を基調としたその絵は水のしたたりを描いたものだった。残るもう1作品もタイトルこそ違うが、題材は同じで色使いと構図が似ていた。
「大丈夫、大丈夫。この人は淡々としてるけど、話を最後まで聞いてくれるから。とにかくこのブルーを誉めるといいよ。中園ブルーって呼ばれているっていう前提で話を進めるようにして、とにかく会話につまったら中園ブルーは最高ですねって押せばいいから。それに、この人は普段は会社員をしていて定期収入があるから、例え細かく分割しないと払えないって言われても、気にしなくていいよ。どうしても渋るようだったら3回までは割っていいけど、それ以外は無理ですと伝えれば、すんなり受けるから」
 黒澤はそういうとパソコン画面を指し、中園の電話番号を表示させた。
「これって携帯ですよね。かけちゃっていいんですか?」
「うん、かまわないよ」
「でも、まだお仕事中では……?」
「ははは、大丈夫。ちょっとこれを一緒に見ようか」。そう言うと黒澤は、パソコンの画面を奏に向ける。中園の名簿の備考欄を指すと、読み上げた。「スーパー勤務(仕事の話はNG)。平日休み(曜日不定)。早朝~16時半と11時~20時の交代制」
「なるほど、今日お休みかも知れませんものね」
 奏は緊張のあまり自分の鼓動で周りの音が聞こえなくなるほどだった。が、意を決して受話器を持った。
 手元には営業トークのマニュアルがあり、先ほど何度か黒澤を相手に練習した際に要点を書き込んである。そこに新しく「中園ブルー」と書き込んだ頃、呼び出し音が止んだ。
「はい」
 30代後半くらいだろうか、思っていたよりも声の若い女性だった。
「な、中園先生でいらっしゃいますでしょうか」
 奏が口ごもりながら言うと、相手は落ち着いた口調で「ええ」とだけ答える。
 目の前に広げてある誌面を見つめながら社名を告げ、練習した通りに続けた。
「おめでとうございます! このたび中園先生は、アールヌーベルヴァーグ国際名誉賞に輝かれました」
 数秒の沈黙の後に、中園は抑揚のない口調で言った。
「私は応募した覚えがありせんけれど」
 マニュアル通りの反応だ。奏は先ほどの練習を思い出しながら、セリフを読み上げた。
「展覧会やメディアなど、世に発表されたすべての作品を対象とした賞なんです。高名な評論家なので中園先生もお名前をお聞きになったことがあるかと思いますが、ジェイコブ・マルコビッチ先生を中心とした、フランスの美術団体が選定されたのです」
「そうですか。他の会社さんからも同じように、賞がどうのこうのという電話がかかってきますね」
「中園ブルーは最高ですから、集中されていらっしゃるのですね。私も先生の『遥かより』というお作品を勉強会で拝見しました。その時、マルコビッチ先生は、中園ブルーは現代日本の宝だと目頭を押さえていらっしゃいました」
「そうですか。その先生のことは、検索すれば一般の人にもすぐわかるのでしょうか」
「そうですね」
 奏は言葉につまり、片手でカタログのマルコビッチの顔写真に〇をつけると、その横に書きなぐった。
――けんさくしてでる?
 目の前では黒澤が指で輪をつくり、小声で言った。
「出る。でも、専門家用のページがほとんどです」
 奏は黒澤に言われたまま繰り返した。黒澤は微笑んで、小声で「誉めて!」と言ってくる。奏は手元に広げられた雑誌を見ながら、感じたことを素直に中園へ伝えた。
「中園先生の作品については、勉強会でよく伺います。なんと言いますか、シンと静まり返っていながらも、躍動の気配がするというか」
 中園は黙って聞いているだけだったが奏は続けた。ひどく緊張しているのだがその一方で、相手のいいところを見つけて教えてあげたいという思いから言葉が生まれ続ける。
「本当に素晴らしいことです。ジェイコブ・マルコビッチ先生も、いつもそうおっしゃっています」
 ようやく中園から反応があった。
「でも、私は自分の好きな色を使っているだけだから」
 ふと奏は我に返った。いつの間にか数分がたっていた。手先は冷え切っているのに背中に汗をかいている。ひと息ついて目の前のマニュアルに目を落とす。先ほど蛍光ペンでラインを引いたところを読み上げた。
「その、一番シンプルで一番大切なことを今の日本でずっと貫いておられるのは、精神力がいることだと思うのです」
「まあ、そうですね。いろいろ言われることもありますから。でも私は好きな絵を描くだけです。正直に言うと描くことは辛いですが、同時に楽しいことですから」
 奏の目の前に黒澤のメモが差し出された。どうやら営業トークに盛り込めということらしい。奏は読み上げる。
「中園ブルーは、他の誰にも出せない特別なものです。中園先生はもっと評価されるべきというのが海外での評価です。日本において既存の画集は、団体のコネや肩書きで作家の選別を行っていることもあるそうですので、本当の精神性は見ている人の心には残らないでしょう。マルコビッチ先生が、中園先生に日本を変える一翼を担ってほしいとおっしゃっています。そして、それだけの力が中園ブルーにはあると私たちも確信しています」
 もともと口数の少ない中園が再び沈黙したとき、奏はふと、そろそろ話題を支払いに切り替えようと思った。マニュアルの「支払」と書かれた項目を読み上げる。
「画集は日本画、洋画、水墨画と書、そして彫刻で構成され、個別にマルコビッチ先生の評論が掲載されます。そして刊行後は世界の主要美術館へ収蔵されます。中園先生のご参加は、マルコビッチ先生のたってのご希望ですので、他に参加される方とは違って、特別に政府からの助成金が割り当てられます。画集は1冊3万円なのですが、先生には特別に1冊進呈させてください。他の方は1ページ45万円でご参加いただくのですが、中園先生の場合は特別に1ページ30万円でご参加いただけます。どうぞ、よろしくお願いします」
 電話口で中園は小さな唸り声を上げた。奏の頭の中にふと、会ったこともない中園の姿が浮かんだ。ありきたりなワンルームでベッドに腰掛けながら、携帯を耳に押し当てている。奏の言葉を聞きながら、ときおりベッドサイドに立てかけた縦長の鏡に映る自分に目をやる。ジェイコブ・マルコビッチのエピソードを騙っている間と同じように、その光景がありありと見えた。
 奏は手が白くなるほど、強く受話器を握しめながら、続けた。
「中園ブルーは日本の希望です。是非このお話をお引き受けください」
「そこまでおっしゃるなら。わかりました」
 中園が相変わらず抑揚のない口調で言った。
「ありがとうございます」
 奏が言うと、目の前で野辺と黒澤が笑顔で小さく拍手をしている。それから奏は中園と分割の回数と支払開始月を決め、それを記入した契約書とパンフレットを郵送するので、署名後に返信してほしいと伝えた。お礼を言って電話を切ると、奏はグッタリと背もたれに身体を預けた。
「素晴らしい。棚絵さんは上手だね」
 電話を終えた浜元も、笑顔で拍手してくれていた。前の会社にいた頃では考えられないことだ。売ろうとしているコンテンツが自分にとって興味のある分野かどうかという違いは、こんなにも結果を左右するのだろうか。
美術に関しては、特に専門的に勉強をしたわけではない。あくまでも趣味の範囲で、奏は高校生のとき、友達とよく現代美術やファッション関係の展覧会を、美術館や小さなギャラリーに見に行っていた。雑誌やインターネットで関連記事を読んだり、動画を見たりしていた程度で、好きな絵をただ好きだという基準だけで見ていた。そのときに友達と作品のいいところについておしゃべりする習慣があったので、今回の電話営業に生きたのだろう。少なくとも、まったく興味のない物を、頭を下げて売っていたときには心のどこかに割り切れないものを抱えていたが、絵について誉めているときには、自分の言葉に自信がもてた。
 3人の拍手に囲まれながら、奏は達成感と罪悪感の入り混じった、何ともいえない高揚を味わっていた。(第1章 終)

著者略歴
本間文子(ほんま あやこ)
宮城県生まれ。出版社の宣伝部、書籍や雑誌の編集部勤務を経て、現在フリーランスのライター・編集者としても活動。2002年に「ボディロック?」で第10回ストリートノベル大賞を受賞し、リトルモアからデビュー。著書に『ボディロック‼︎‼︎‼︎!︎』(リトルモア)、『ラフ』(エンターブレイン/現:KADOKAWA)がある。2020年4月に新刊出版予定。
本間さんから読者へのメッセージ
昔、転職先を探していたときに、自費出版系の出版社の求人広告を見たことがあります。のちに一部の自費出版やセミナービジネスではどのような営業が行われるかを知り、私自身や母も似たような営業に騙されてしまったことがあると気付きました。こういった経験から興味がわき、騙されやすい人にはどういったタイプが多いのか、人はどういった営業トークに釣られてしまうのかを調べているうちに、この物語の構想につながっていきました。ひさしぶりのオリジナル書下ろし小説となる本作は、日々プレッシャーと闘いながら仕事をしている人や、周囲の人たちから浮いて、心を矯正されそうになっているあなたに読んでほしいと、心から願っています。

本間文子さんの『カタリ』第一章、楽しんでいただけましたでしょうか。今回でいったん連載は終了しますが、「第二章以降も読みたい!」というお声があれば検討しますので、ご意見・ご希望をコメント欄までお寄せください。

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