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電話を取らないのがマナーな時代が来る



変わらない新人研修

久しぶりに,新人研修の教材を見た。

内容は,挨拶の仕方,クライエントへの望ましい応対方法,服装,ホウレンソウ・・・

どこの組織にもあるようなごくごく当たり前内容。
私が新人として研修を受けた10年前から何も変わっていない。

その中の一つ。電話対応。

・会社や組織の代表だという意識を持つ
・3コール以内で出る
・ 10時半までは「おはようございます。」など。

最近の10代20代は,そもそも家に固定電話がなく,スマートフォンで育っているので,そもそもどうやって電話に出たら分からない,電話が恐いていう話も聞く。

そういう彼らにとって,単純に働き始めたばかりという事情に加えて,恐怖しかない電話応対が当然だと周囲に強要されるのは,すごく大きな心理的障害だろうなあと想像する。


漂う連帯責任


そもそもなぜここまで「電話を取ること」にみんな執着するのだろう。

受付でも,テレフォンセンターでもないのに。
一般的に“社会人として”当然身につけておくべきとされる電話応対スキルって,実は相当高いレベルなんじゃないかと思う。

会ったこともない人,どんな用件かもわからない。
肩書きとか聞いたことがない。部署もわからない。
そんなないないづくしなのに,会社の代表として失礼のないように,間違いのないように応対しなくてはいけない。

新人×突然の電話への対応って失敗のリスクがまぁまぁ高い組合せですよね。そんな仕事を新人にさせようとする文化って実は不思議だ。

とにかく誰よりも早く電話に出る,という行為で示すことが求められるもの。
それは,組織に馴染みます,忠誠を示します,みたいな通過儀礼的な要素なんじゃないかと思う。

日本の会社や組織には,なんとなーく漂っている連帯感責任感みたいなものがある。
会社組織にかかってきた電話は,みんなの責任で対応しないといけない。
(一応まだ前提とされている)終身雇用を前提として、会社や組織への忠誠心が重視される。その第一歩として電話を取る。 誰よりも早く取る。

それが当たり前にできるようになれば,おめでとうございます。あなたは社会や組織の一員として,最初のゲートをくぐりましたね!と受け入れてもらえるのだ。

生産性との相関関係


この『率先して電話に出ること』が強く推奨される文化。生産性という観点から考えてみたい。

確かに電話を率先して取り続けることで,部署や肩書き覚えたり,電話番として役に立ったりという面はあるのかもしれない。

でも,自分の所にかかってきた電話以外のもの携帯をする時の作業を因数分解するとこんな感じになるのではないか。

・手元の作業を中断する。
・ 呼び出し音が聞こえてきた方角から,誰の電話かをまず見渡して確認する。
・その人(またはそのチームの人)が席にいるかいないか確認するために見渡す。
・他に誰かとる人がいるか一瞬様子を見る。
・電話に出る。聞き慣れない会社名,肩書名,名前に困惑する。
・電話の内容を付箋に残す。その人のデスクまで行って付箋を貼る。
・元の作業に戻る。どこまで何をやっていたのか思い出すまでにやや時間がかかる。

集中力が削がれる,戻るのにも時間がかかる。
自分自身の仕事の生産性という観点からすると相当なロスである。
率先して電話に取り続けることもメリットもはるかに上回るデメリット。
だからこそ, 通過儀礼として機能していると思う。
通過儀礼って,往々にして説明がつかない,合理的でない行為であることが多いでしょ。


個人の生産性を上げないと生き残れない時代が来る

私がアメリカの組織で研究活動させてもらった時に体験した,電話文化と比較してみたい。

・そもそもデスクが個々人のコンパートメントに区切られていることが多い(ドラマや映画でよく見られるあれ。)。
・電話は個人に割り振られている。
・個人にかかってきた電話は,他の人は取らない。なぜなら他の人への電話だから。
・個人用の電話は,メッセージが流れるように設定できる。いつまで不在か,急の要件の場合は,どこの電話番号にかけたらいいか。かけてきた人がどう対応したらいいか教えてくれる。
・全体への電話は,受付専門に雇われてる人が取る。
・チャットも併用。忙しい時や優先順位の低い条件だと,チャットもスルーされる(ただし,悪気はない。)。
・個人用の携帯電話が支給されている人もいる。

当初,無意識的に日本的文化が染み付いた自分にとって,なり続けるコール音を放置しておくことには居心地の悪さや罪悪感を感じた。

でも,徐々に人の電話に出ないことでむしろ得られる生産性の高さに気づくようになった。

人のためにボランティア的に使わなくてはいけない時間が最小化できる。
ジョブディスクリプションで決められた役割が行動指針。
自分が出すべきアウトプットに集中できる。

日本は,個人に対するジョブディスクリプションがないから,チームで請け負っている仕事をなんとなく全員でやることが求められる。
そうすると,チームの仕事とされていて,誰かがやらないといけないけどやっていない余白の部分を何となく察して埋めに行かなくてはならない。
結局何の役に立ってるかわからなくなる。

日本は,今後人口がどんどん減っていくことはもう明白だ。
働ける人が減っていく以上、個人の生産性を上げないと、社会が持たなくなる時代がくる。

現実はどうかという,まだまだ日本の過去の栄光に縋り付いている人が大半で,なんだかんだ言ってしばらくは今の文化は続いていくんだろうなぁと思う。
人が自らの行動を変えるのは,基本その人自身が何かを失った時か,ものすごく痛い思いをした時だ。

日本人の多くが,このままじゃだめだ!と気づいた時,むしろ生産性を下げる通過儀礼が生き残っていく余地はあるのだろうか。
その時には,新人に対する教育だって変わっていくと思う。

「新人が勝手に電話をとる。」

そんな不満がむしろ聞こえるようになる日を私は楽しみにしている。



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