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古典ギリシア

古典ギリシア哲学の進展には、理性、または知性の取り扱いにおいて、一種の経営判断がある。
軽視しているロマンや心情は、知性や欲望を越え、場合によっては、それらを越えた暴力への回路を持つ。
それを封じたければ、彼らは知性の守り人としてであっても、それらを越えたサイコパスであるべきだ。
すなわち、自身を真理がもつ非生命的な側面そのものとなって語ってみせた方が、はるかに哲学のための哲学そのものの姿にふさわしくなるのである。
でなければ、哲人王の任命形式の不達成性にあぐらをかき、バカより賢いというマッチポンプを繰り返し、バカをバカと言うことで真理の徒のふりを継続しているだけになり、真理や同一律同様、自分たちで失ったはずの永遠性を、恒なるバカに託しているだけになる。
なぜならば、知性の在り方のうち、知性の無害さのみを知性の本来性とし、知性の有害さは哲学のそれに非ずとし、そのような知性の守り人を買って出るならば、それ自体が彼らを反映先を失った知性に対するロマンチストか、知恵の立場にしてしまうからだ。
ロマンに回収したニーチェやカントの復権に対し、ソクラテスを例に出しながら、実際にはニーチェやカントの物言いで釘を刺すのが関の山なのはそのためだ。
ソクラテスの末裔を気取っても晩年におけるアリストテレスの隠遁と変わらず、それは待機の性質すら持たない。
自分は、哲学は反知性主義程度のものに官僚的に勝利するより、同一律の喪失そのものと正面から向き合った方がよっぽど面白いと考えている。

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