見出し画像

どうしても上手くいかなかった出来の悪い大学院生が、やっと修士論文の提出まで漕ぎ着けた

先日、修士論文の提出を終えた。卒業を一度諦めかけた身としては、よくここまで来られたと思う。提出期限まで時間が限られる中、周囲の人の助けもあり、なんとか駆け抜けることができた。

画像7

私は大学院生としては、どちらかというと出来が悪いほうだと思う。発表を前にしては、何をすればいいかわからなくて、結局形だけ整えて「それっぽく」して大事な部分は先送りにするしかなかった。知識面でも、下手の横好きの典型で、いろんなものに興味をもってたくさん勉強するけれど、どれもせいぜい学部生の選択必修科目レベルの知識で止まって深まらない。これじゃダメだ、なんとかしなきゃいけないって頑張るほどに空回りして、やることなすこと、みな自分の「軸」に絡まらなくなっていった。そんな出来の悪い自分自身をいつも蔑んでいた。

私には研究がわからない。学部のときは、研究は勉強の延長上にあるものとばかり思っていた。それはある意味きっとそうでもあるのだけど、ただやみくもに勉強をすれば自動的に研究になるようなものでもないらしいという事に気づくために、すこし時間がかかった。研究をしないといけない。でもその「研究」というものがいったい何であるのかわからなかったし、誰も教えてくれなかった。

いよいよ修士論文の見通しを立てないといけない。下手の横好きだから、問題意識はある。たくさんある。でも、それを研究にするとなると、どうすればいいか見当がつかなかった。このままでは卒業できない。自分は大学院生には向いてないということは、自分自身が誰よりもわかっていたから、大学院をやめる方向で心の中は固まっていたけど、やめる前に、少しだけ悪あがきして、なんとか卒業できないか頑張ってみようと思った。

画像6

どっちに行けばいいかわからないし、その先に何を目指せばいいのかもわからないし、もしかしたらこの先に崖があって落ちて死ぬのかもしれないし、もしかしたらこの先に沼があって上がって来られなくなるのかもしれない。

「前に進み続けなくてはいけない」ということだけは決まっていて、同時に、自分の進んでいる方向が間違っているということだけははっきりとわかっていた。どれだけ頑張っても結果が出ることはない。とすれば、自分の生活はすべての瞬間が自己否定になった。今日は頑張ってみようと資料を積んでみるけど、自分がいったい何のためにこれらの資料にあたっているのかわからなくなって、なにも頭に残らない。それで報告の締切が来て、発表資料を作って、どうするの、できるのという事をきかれる。やります。嘘だ。何をどうしたらいいのかすらわからないのに、どっかから良いアイディアが勝手に湧き上がってくるなんて事はない。実家の庭で温泉なり石油なり掘り当てるほうがまだ望みがある。論文を進めていない自分が目覚めて、論文の進捗が無いないまま朝食をとり、体調が悪いと論文を進めないまま横になり、論文の進捗が出てないのに寝る。絶え間ない自己否定の洗濯機の渦に揉まれて、生地が傷んでいく。

画像6

さすがにもう動き始めないと、時間切れになってしまう。自分が修士号をとれる自信はすっかり無かったけど、誰かにインタビューをして一次資料を作ってしまえば、先生方も何となく落としづらくて情けをかけてくれるだろうというセコい期待で、生活史の聞き取りを軸に修論を書くことにした。これが、もう二度と思い出したくないようなひどい論文になったとしても、それを生贄にして、とりあえず修士論文をやり過ごして卒業できるだろうという読みがあった。

インタビューは協力者に恵まれてなんとか一次データを得ることができた。あとはこれを整理して、先行研究っぽいものをいくつか探してきてブリコラージュすればひとまず形だけはできるぞ。いける気がしてきた。「行き先の無い幽霊列車」にやっと「行き先」ができて、安心して前に進めるようになった。

画像8

インタビューの分析を進めると、一次データがひとりでに動き出して物語を紡ぎ始めるような感触があった。漫画家さんのインタビューでよく、「キャラクターたちがひとりでに動き出して物語を紡ぎ始めた」というような事を言う人がいるように、もしかしたら、この一次データも、ちゃんと形にすれば思いもよらなかったような良い論文になるんじゃないか。でもそれは同時に、これを自分がちゃんと論文にしなくては、自分が無能だったばっかりにこの一次データを殺すことになってしまうことを意味する。この際、自分が出来が悪いだとか研究に向いてないだとか関係ない。はっきりしているのは、自分が頑張らなければこの一次データは死ぬということ。モノホンかテンプラかなんてノンセンス。上手くできる自信は無いけれど、頑張るしかない。

画像7

そうと決まったらあとは精一杯やるしかない。進むべき方向が定まっているから、頑張れば頑張るだけ前に進むことができる。迷子になっていた期間が長かったから、締め切りまでとにかく時間がない。日々のいろんな楽しみを諦めて、全てを進捗と体力回復にあてて、なるべく良いものができるよう精一杯がんばった。最初からこの頑張りができていればこんなに慌てるようなことは無かったのだけど、「あとは頑張るだけ」という状態に持ってくのが容易なことではなかったから、やっぱりこうならざるを得なかったのかもしれない。

画像4

結果としては、ひとまず形にはなったけど、論文としてちゃんと良いものができたかと問われれば自信がない。締め切りに間に合わせるためにひとまず形にしたという点だけ見ればまったく進歩していない。でも、明らかに違ったのは、どっちが前なのかはっきりわかって歩けたこと、なるべく前に進むために最大限の事ができたこと、そして現在地からどう歩けば前に行けるか何となくわかること。

トラウマとそうでない記憶の違いは、ざっくり言えば、その経験を頭のなかで位置づけて整理できているかどうからしい。今までは、わけのわからないまま進めて、わけのわからないまま終わらせて、出来上がったものを前にしてひどく傷ついた。その一連の失敗体験を繰り返してはトラウマが濃縮されていった。その一連のプロセスにはじめて光を当てることができたと思う。暗闇に灯りがともり、位置づけ、やっと次に繋げることができるようになった。

修論の審査が怖くないのかといえば、まったくそんな事はないけれど、暗闇の恐怖ではなくて、目に見える相手と戦えるから、勝てるよう十分な準備をして自分自身を安心させようと思う。

画像3

すべての提出を終えた後、その足で亀戸天神社にお参りした。今まで持っていた学業のお守りふたつは数々の修羅場を抜けてもうクタクタだろうから返して、新しいものをひとつもらった。おみくじを引いたら、苦しんでいた時期にぜったいに出なかった大吉が出た(院試のときは悪い結果ばかり出たので、ましな結果が出るまで3回引き直した)。「何事も繁昌して心のまゝになるけれど心に油断があってはならない 只今より来年の事をよくゝゝ考えてやりそこなわぬ様十分の注意をしておきなさい」とのこと。浮かれるのは程々にして、地に足をつけて十分に備えます。

画像1

お導き下さいまして、ありがとうございました。苦労はいたしましたが、おかげさまで、一連の過程を終えることができました。今後とも、精進して参りますので、どうかお見届けください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?