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#15 毒親との関わり方 ~人生最大の事件で精神崩壊~

ついに、物心ついたころからの念願であった家出を成し遂げた私は、その達成を噛み締める一方で、これから来るブラック企業での社会人生活に向けて、改めて身を引き締めていました。

そして4月になり、仕事が始まって間もなく、父親が突然、アポなしで会社にやって来たのです。

この会社は、周りもワケありの人間だらけだったので、私もその一人に過ぎませんでしたが、すでに、どんな家庭で育ってきたか、周りには話していたので、さすがに「愛ちゃんの父親が来た!」ということで、ちょっとしたザワつきがありました。

父親を動揺させないように、会社の中でも比較的地味な女性が(それでも世間よりは派手ですが(笑))、かいがいしく父に茶を運んでくれ、接客用のブースで父親と話をしました。

当時の会社は、誰でも名前を知っている有名なビルの中にあったので、父親もそんな変な会社だとは思わなかったのかどうなのか、「どんな仕事なんだ?」というようなことを適当に軽く話をして、帰っていきました。

当時は、私もまだウブな18歳でしたから、突然の父親の訪問にちょっと恥ずかしく感じながらも、さすがに、自分のいないうちに本当に家を出ていった娘を心配したのか、何だかんだ私を心配してくれているのかも、なんて思ったりしていました。

「私に会いに来る第一の目的」が、常に、「宗教に戻るそぶり、戻る様子があるかどうかを確かめるため」だということが分かるのは、もっと後の話になります。

そして仕事が始まり、グレーゾーン業務を朝9時から終電まで続ける生活が始まりました。(業務の詳細については「私の営業人生」をご覧ください)

今じゃ考えられないことですが、仕事を始めてすぐに、求人には「固定給」と書いてあったのに、実際は完全歩合制の仕事だと分かりました。厳密に言うと、“独り立ち”するまでは固定給は払うが、できるだけ速やかに独り立ちして歩合になってくれ、とつつかれる感じでした。

なんじゃそりゃ、と思いました。そんなの求めてないし、上昇思考も競争心も皆無です。これまでできなかった、好きな本を読み、好きなテレビを見て、ただ“普通”を体験できさえすれば良かっただけで、給料の分はちゃんと働くから、その分の給料をもらいたかっただけなのに、いきなりトンでもない世界に入ってしまいました。

でも、私には選択肢はありません。帰る場所はないのですから、住む家と食べ物を確保するには、有無を言わず順応するしかありませんでした。

そしてついに、念願の「初給料」の日がやってきます。18万数千円でした。

この時はさすがに感慨に浸りました。ついに私の新しい人生が始まったんだという気がしました。

そして私の心に、一つの考えが浮かびます。初任給でよくやられてるやつです。親へのプレゼントです。

思想が合わなかったとはいえ、十分な稼ぎをもって、衣食住、何不自由なく、一度も何かが買えないとか生活に困るということもなく、むしろ多少の贅沢もさせてもらいながらここまで育ててくれた両親に、感謝しておかなくては、と思ったのです。

そして、家に電話をかけました。「初任給が入ったので、大したことはできないが、これまで育ててもらったお礼をしたい」と。

その時は、声で、喜んでいるんだろうなあ、とは伝わってきました。そして、日程をまた連絡する、と言われ、切りました。

それから、1週間ほど経ったころでしょうか、会社宛に、両親と妹から1通ずつ、2通の「手紙」が届いたのです。

また会社はザワつきました。「愛ちゃん、なんか親御さんから手紙来てるよ」と言われ、私もよく事情が飲み込めないまま、その場ですぐ読み始めました。

そこには、こんな文章が書かれてありました。

「先日いただいた話を、宗教の上の人に相談したところ、あなたと「お会いすることはできない」という結論に至りました」

そのあと、なんかいろいろ、「悔い改めて戻ってきてくれればまた会える」とか「また一緒に宗教をやれる日を待ち望んでいる」というようなことが書いてあったと思いますが、上の一文で完全に撲殺されていた私には、あまり記憶が残っていません。

手紙は、会社の人たちみんなで回し読みした後、即座に破り捨てました。表面上は、「ほんとヤバいですよね、うちの親~!」なんていいながら回してましたが、すでに心は死んでいました。

この一件で、私の精神は完全に叩きのめされ、崩壊しました。

これまで育ててもらった感謝を伝えることすら許されないのか。そりゃあ、模範的な子供ではなかったと思うが、犯罪を犯したわけでもないのに、それすら否定されるのか。

当時の私にはそれが、「私の存在そのものへの否定」としか思えませんでした。

今なら、そんな親さっさと切り捨てて、自分の人生歩めばいいじゃないか、かえって身軽でいい、なんて思えますが、当時はとてもそうは思えなかった。

何でしょう、まだ心に、わずかに「期待」があったのかもしれません。宗教の教えがあるとはいっても、親なのだから、さすがにそこまで切り捨てることはしないだろう、というような望みが。

誰しもそうでしょうが、私は人一倍、褒められたい、認められたい、貢献したい、頼られたい、と思うタイプの人間だったと思います。

自ら離れる決断をしたのだから、本末転倒かもしれないし、難しいことは分かっていても、自慢の娘でありたかったし、すごいと思われたかったし、親孝行をして喜ばれたかったのです。

そんな思いが、一瞬にして叩き潰され、私はここから、ただ死ぬ勇気がないから惰性で生きる、何にも感動せず、どんな景色にも心動かず、ただ日々を消化するだけの人生を、10年以上続けることになります。

続きは次回。

お読みいただきありがとうございました。

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