#20 毒親との関わり方 ~毒親を「赦す」ということの意味~
これまで書いてきたとおり、すべてを受け入れて肯定し愛してくれる男性や親友の存在、医者や本の言葉、そして自分の能力を認め、自信を持ちはじめたことにより、私は少しずつ癒されていきました。
そして、36歳を迎えたころ、毒親に対して抱いていた感情に変化が現れます。
「もうすべて消化した」「自分の精神衛生のために赦そう」 という気持ちがわいてきたのです。
この「赦す」というのは、「もういい、これまでのこと、許してあげる!」というような単純なことではありません。
親への恨み辛みや、怒りの感情をずっと持ち続けて生きていると、ある時ふと、「これ、無駄なんじゃないか?」と思えてくる。
恨み辛みを抱いたり、怒ることで、相手が変化して謝ってくれたり、状況が変わるならいいけども、どんなにこちらが恨んだ辛んだところで、相手は今日も、自分が正しいと確信して幸せに生きてるわけです。
「これは自分の限られた人生の時間がもったいない」と思えてくる。だって、1%も見込みのないことに労力をかけてるんですからね。。
でも、個人的には、とことん恨んだり憎んだりする時期は必要だと思います。私も、何も解決しないことを知った上で、ありったけの恨み辛みを親にすべてぶつけたからこそ、この段階に進めたわけですし、
「自分の人生大切にしよう、できるだけ健やかに楽しく生きよう」という、自己肯定感のかけらみたいなものが生まれて来ないと、こうは思えないと思います。「自分(の心身)を守る」ために「赦す」わけですから。
そして、「あとはすべて、神様に処遇を任せる」という意味で、「赦そう」という思いに至ったのです。
親のしたことというのは、神様が必ず見ている。だから、罰を下すなら神様が下すだろうし、どういう死に方をするか知らないが、それはもう神様が決めることだから、全部お任せして、私の中ではもう終わりにしよう、ということです。
これでまたひとつ、肩の荷がおりて楽になりました。
ちょっと話は脱線しますが、自己肯定感っていうのは、ほんと途方もないです。極端な言い方をすれば、「何も持っていない自分でも、生きている価値があると思えること」。
途方もなくないですか!?親から自己肯定感を植え付けてもらえなかった人間からしたら、どうやってその位置までたどり着くのか、いや別に無理にたどり着く必要はないんですけど、ほんとにもう、仙人になるくらい難しく思えます。笑
この36の頃の私は、20代の「死ぬ勇気がないからただ惰性で生きているだけ」の状態から、「まあ、せっかく生きてるんだから、できるだけ楽しく生きられるようにできたらいいよね」まで来た段階です。これでも相当な成長です。
3年たった今はもう少し進化して、「なかなか楽しく生きられてるんじゃない?もうひとふんばり頑張ってみちゃう?」くらいのところまで来てます。すこぶるいい感じじゃないでしょうか。笑
で、個人的に一番の難関だと思ってるのが「生んでくれてありがとう」だと思ってます。何せ、「生まれてきてくれてありがとう」と言われた(感じられた)ことがないんですから、これはもう相当な難関です。
まあ、一生思えなくても死ぬ訳じゃないしいいんですが、この世に生まれてきた身として、せっかくなら、「この世に存在させてくれてありがとう!」と言えるようになって死んでいきたいなあ、なんて思ったりもします。
次回は、結婚までのことを、毒親エピソードも絡めながら書こうかと思います。
お読みいただきありがとうございました。