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シン・エヴァンエゲリオン:||考察&感想①〜エヴァという舞台装置と現代版『人間失格』の終わり〜

シン・エヴァンゲリオン(以下、シンエヴァ)を公開後数日してようやく見ることができました。私はテレビ版エヴァを生視聴することも、旧劇場版を劇場で見ることもできなかった人間です。ただ、「エヴェンゲリオンシン劇場版」という一つのシリーズ作品に魅せられてエヴァンゲリオンの世界を知ることができたことは非常に幸運だったと思っています。

拙い”感想”ではありますが、数年かかったこの超大作については語ることが多く、熱が冷めないうちに筆をとった次第です。誰か一人でも、映画を見た人に、「一つのシンエヴァの見方」として楽しんでいただけたら嬉しいです。

※以下の感想にはシンエヴァのネタバレを含みます。視聴された状態を想定して書いておりますので、あらすじはすべて割愛します。
※いわゆるエヴァの専門的な用語(例:ネブカドネザルの鍵)など、作品を動かすギミック、キーワードやアイテムに関する考察は一切ありません。あくまで物語作品としての感想・考察となりますので、ギミック的な考察を希望されている方には向かないかもしれません。

「この世は舞台、人はみな役者だ」

シェイクスピアの『お気に召すまま』の中にこのようなものがあります。

 All the world's a stage,
 And all the men and women merely players;
 They have their exits and their entrances;
 And one man in his time plays many parts,
 His acts being seven ages. (As You Like It, II. vii, 139-43)
 
 全世界は一つの舞台だ。
 そしてすべての人間は男も女も役者にすぎない。
 めいめい出があり、引っ込みがある。
 しかも一人が一生に沢山の役を務め、
 その全幕は七つの時代から成る。(『お気に召すまま』II. vii, 139-43)
出展: 英語名句辞典 「お気に召すまま」 
訳 岡本靖正、栗原裕、河本仲聖 大修館書店
ー引用元:https://ameblo.jp/prospero01/entry-12389057547.html

エヴァンゲリオンシリーズというのは、私にとっては大きな舞台装置でした。そして、エヴァはシェイクスピアの”入れ子構造”を忠実に再現していました。

劇中劇(げきちゅうげき、英: Story within a story)は、劇の中に挿入された劇。物語や小説では作中作と称する。劇の中でさらに別の劇が展開する「入れ子構造」によって、ある種の演出効果を生むためによく使われる技法。
ーWikipedia[劇中劇]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%87%E4%B8%AD%E5%8A%87

使徒、運命を仕組まれた子供達、ネルフ、人類保管計画。

テレビ版、旧劇場版、漫画版、新劇場版を通してほぼ同一の設定、キャラクターを使い異なる結末がもたらされました。私はこれらの作品を見ていると、まるでいくつかのルールだけを保持して複数の物語を生み出す箱庭や、舞台装置かのように見えました。(わかる人にはわかるかもしれませんが、『うみねこのなく頃に』と同じ設計だと思っています)

それを指し示すように、シンエヴァ後半では”ゲンドウやシンジが理解可能な表現”として世界が構築され戦闘する中で、舞台装置を突き破るようなシーンや、舞台の中で一人取り残されたレイをシンジが迎えに行くようなシーンがあります。これはシェイクスピアの劇中劇と同様、メタ視点を取り入れた作風と同一と私は捉えました。

シンエヴァが非常に興味深いことは、この入れ子構造とその舞台装置を取り入れながらにしての完成度の高さです。

キャラクターたちの説明や、既存のストーリーとの齟齬を発生させず、(と私は思いました)今までのルールにのっとって劇を展開させながらも、それぞれの役者が示すメタファー描写も逃げずに緻密に描いています。それでいながら、きちんと作品単体がエンターテインメントとして成立するようになっていました。

いやあこりゃ、8年かかるわけです。
劇場で「これは職人技だ」と完成度の高さに涙が出てしまったことを告白します。

「エヴァ」が描いた劇中劇・入れ子構造からメッセージの視点をさぐる

重要なことは、この設計をとるという時点で、複数ある結末に対して「どれが正史である」といったものはありません。あくまで一つの舞台装置を使って生み出される物語は、その上での設定(ルール)は同一であり、その結果は、過程に生まれる変化により生じるものであるというだけです。オセロやチェス、囲碁。いずれも何度でもプレイできるもの、ということと同じ考え方です。
(なのでこれは余談ですが、シンエヴァを真の結末と信じて、レイやアスカ、あるいはカヲルくんとの決着に必要以上にがっかりする必要はないと思っています笑)

であれば、作品として見るべきは、盤面に起こる機微だけではなく、より盤面全体。いわば「これはどういう舞台・ゲームなのか」ということを理解することにあると思っています。そしてこの際考慮に入れるべきとしては、入れ子構造ないし劇中劇の効果は、より観客に共感を引き起こさせ、自分ごと化させることにあるということです。エヴァの作り手が、私たちに何を考えさせたいのか?が一つの考察のテーマとなります。

エヴァの中にある複数の対立構造

ヴィレVSゼーレ
シンジVSゲンドウ
アスカVSレイ

今まで作品をエンタメとして捉えている私たちが一見するとどちらかの勝敗に目を向けてしまいがちです。ただ、シンエヴァを見た方ならわかると思いますが、それらについてどちらにも軍配をあげなかったのが「シンエヴァ」だったのではないでしょうか。私は、シンエヴァを二項対立の勝敗や決着ではなく、「エヴァで行われていたゲームや舞台構造は誰の、なんのためのものだったのか」という目線で鑑賞しました。その上で、ストーリーラインを考察していきたいと思います。

現代版『人間失格』と傷つきたくないシンジくん

私がエヴァシリーズを初めて見たとき、強烈に思い出したのは『人間失格』でした。

多種多様な考え方をした人間が、大量に生きているこの世界が恐ろしい。その中で生きていくことの難しさと、居心地の悪さ。

主人公である碇シンジくんは、両親に置いてけぼりをされた結果、親族の家に預けられ居心地の悪い思いをします。親からの愛情、周囲との距離感がわからないまま迎えた思春期に迎えたのは、新しい環境と”他人との接触”という通過儀礼でした。

自分以外の人間が何を考えているかわからない、自分が傷つけられるのが怖い。そういった感情が目に見える形が”ATフィールド”という形で表現されているのはファンにとっては周知の事実ですが、それを使って襲いかかってくくる使徒と”戦う”というのは非常に象徴的なことです。

私にとってエヴァという物語の終着点はこの「ATフィールドとの決着」=人間関係においてシンジくんが成長することだと思っていました。

序、破、Qまでで描かれた通過儀礼

使徒との戦い=人間関係における通過儀礼であると痛烈に感じたのは「序」で描かれた使徒との戦闘。迫り来る使徒をシンジくんが迎え撃ちますが、敵のATフィールドにシンジくんがぶつかっていくというシーンがありました。

「自分に向かって来る”世間”や”人”とこの子は戦っているのではないか」

新しい人との出会い。奇妙なクラスメイト(綾波レイ)。そういった新しい人間関係と出会ったときのシンジくんは、戸惑いはありますが逃げ出すことなく受け入れようとします。「序」の最後で綾波レイに対して自ら手を差し出すところでも、シンジくんが自ら人間関係の扉を開く様子をみることができると思います。

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「破」でのその傾向は見られ、新たに登場するアスカとは、出会い、軋轢、和解、対話が発生します。シンジくんにとっては社会に順応していく上でのオリエンテーションのようなもので、非常によい形で「研修」が行われたな、という印象でした。人間関係におけるもっとも順調な段取りを、アスカをつかってシンジは経験したといえます。
(シンエヴァでは彼女もまた作られた子供であり、仕組まれた子供であることがわかりますから、もしかしたらこのオリエンテーションもまた、仕組まれたことなのかもしれません。そうは思いたくないですが・・・)

その一方で、友人(アスカ)の暴走に対して何もできず、ただ距離をとることしかできなかったことが友人の破滅を招き、それを後悔するという人間関係の痛みも知ることになります。人と付き合うというのは、ときに痛みを伴うということをシンジはここで痛烈に知るのです。(あるいは、のちに彼が気づくことになる、「友人に対して何の判断もできないまま、ただ見守ることしかできなかったことが、後悔を生む」ということも。)

ここまでを総括して、エヴァは使徒との戦い、あるいは使徒を”人間関係のメタファー”として描くシンジくんの成長物語であるという目線で、作品をより深堀して考えていきたいと思っています。

「レイを助けたい」というシンジくんのごまかし

「破」の最高潮たるシンジくんのレイ救出行動ですが、シンジくんが本当に助けたかったのはレイではなく、彼自身だったのであるというのが私の持論です。結局のところシンジくんは、アスカとの戦闘で感じた「何もできなかった後悔」に苦しみ、その苦しみはもう二度と体験したくないと感じていたのではないでしょうか。

アドラー的ではありますが、シンジくんはもともと「自分が傷つきたくない」という目的を強くもって生きています。それは序〜シンの序盤にいたるまで一貫しており、自分が傷つく場面になると殻に入って閉じこもるという性質があります。序で語られた「ハリネズミのジレンマ」というのは極めて的を得ているということがわかります。

このことからしても、「レイを助けるため」というのはその中で得た大義名分であり、これはシンジくんが自分に対しておこなった”ごまかし”であると考えています。本当はただ、シンジくん自身が「これ以上自分が動かなかったことで後悔をして傷つきたくない」だけだったのです。

実際、彼が「Q」でふさぎ込んでしまったのは、自分が救えなかったレイという事実以上に、自分がしてしまったことが原因で嫌悪され、疎外されてしまったためだと私は感じました。「エヴァに乗るな」「お前のせいで」と言われ傷ついてしまったからこそ、ハリネズミのように丸くなってしまったのです。

レイに対してもっと執着があれば、父をもっと問いただしたり、そっくりさん自身の存在についてより説明を求めたはずです。それをしなかったのも、レイというのはシンジくんにとっての単なる「ごまかし」だったからではないでしょうか。
(シンジ×レイ派のみなさんごめんなさい、お叱りは受けます・・・が、冒頭にお話した通りこれは「一つの結末」であって、正史ではないというのが私のスタンスです)

自分の心にごまかしをしているうちは、幸せになれません。どんな真実であろうと、ありのままの自分を知ることで前向きになれる、という考え方もまた、アドラー的かもしれませんね。

シンジくんがこのごまかしに気がついたのがシンエヴァであり、そして物語は新たな展開を迎えます。では、自分の気持ちをごまかしていたのは、果たしてシンジくんだけだったのでしょうか。

続きは次回

すいません、書きたいことが多すぎるのですが、5000字を目前にして「やりすぎた」と思いました。

今日はここで一度筆を置いて、明日続きを書いていきたいと思います。

いやあ、いい映画だった。すごい。(IQ3)

よかったら次回も!サービスサービス!!

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