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第18回メートル・ド・セルヴィス杯優勝、大きな大きなガッツポーズが!

フランスレストラン文化振興協会(略称、APGF)note編集部員です。

APGF公式noteの 第七回目の記事は、日本で唯一となる国際基準のレストランサーヴィスコンクール「第18回“メートル・ド・セルヴィス杯”」決勝大会に出場し、見事優勝したホテル ラ・スイート神戸ハーバーランドの深津茂人さんからのメッセージです。

このメッセージには、ヘッダー画像とタイトルにあるように大きな大きなガッツポーズが素直に出るほどの喜びに至るまでの苦労や感謝や経験など様々な思いが詰まっています。

今挑戦に挑んでいる方、これから挑戦をしようとする皆さまにも、自身の成長を信じてコンクールに挑戦することで得られる大きな財産と得難い経験の素晴らしさを感じ、最後には大きな感動を自身で勝ち取るきっかけになれば嬉しいです。

では、深津茂人さんのメッセージをお楽しみください。


レストランに入社して3年、コミ・ド・ラン時代

私は20歳の時に名古屋のホテルレストランに入り、そこから約3年、ひたすらキッチンとダイニングを行き来するだけのコミ・ド・ラン※をしていました。

当時のフレンチレストランは完全に分業制であり、「ソムリエは飲料のみ・メートルは料理のみ・コミはひたすら走る」というクラシカルなスタイルで営業していたものですから、コミだった私はお客様とお話しするという事はほとんどなく、ましてや料理やワインをサーヴするなんてことは皆無で、毎日ジャケットが汗で塩を噴くほど走り回っていました。

優雅にダイニングで料理やワインをサーヴする世界を夢見てこの世界に入った私には衝撃的だったことを覚えています。

不器用で要領も悪かった私は毎日のようにコンソールで上司に叱られ、キッチンに戻れば料理人から怒鳴られ、当時の副料理長から、「おまえは開店以来、史上最も使えないコミだ!」と大変名誉な称号まで頂いたものです。(笑)

※コミ・ド・ラン(仏:commis de rang)とは、
シェフ・ド・ラン(ヨーロッパの料飲施設の上級ウェイター)の補佐をするウェイターの総称で、料飲施設の中の職種の一つ。注文を調理場へ伝えたり、料理の運搬、シェフ・ド・ランがテーブル・サイドで用意する料理を食事客に提供する。特定のシェフ・ド・ランにつく。別名、コミ・ド・ラン、コミ・ド・スィートと呼ばれる。ロースト料理・オードブルなどのワゴン担当者は、特定のシェフ・ド・ランはいないが必要に応じて補佐となり料理を提供するため、コミ・ド・ワゴンと呼ばれる。(ホテリエガイド:ホテル&ブライダル用語集より)


大きな目標が自然と芽生えるまで

メートルドセルヴィス杯優勝 深津茂人7

そんな毎日も、資格とコンクールの存在を意識するようになり、私のギャルソン人生は大きく変わり始めます

先輩のアドバイスで資格を取ってみてはどうかという話になり、チーズの資格を受け、見事に1発で合格をしました。

23歳でチーズの資格を取り、24歳の時にはメートル・カナルディエの資格も取得しました。

当時のマネージャーやキャプテンが積極的にコンクールに挑戦していたこともあり、普段の営業からデクパージュやフランベのメニューが豊富だったこと、店舗に備品や機材が揃っていたことなども恵まれていたと思います。

それまでは、ただ食器やボトルを運ぶだけだった私が、チーズやゲリドンサービス、フランベサービスで、お客様からご指名を頂くまでになりました

あの人のデクパージュする鴨が食べたい、あの人のフランベが食べたい、と仰っていただけることがどれほど嬉しかったか…。

まだ名刺もろくに作って貰えていなかったので、店舗カードに名前を書いてお渡ししていました。

また、そのころから私を可愛がってくださっていたお客様は、10年以上経った今でも私の事を忘れずにいてくださり、名古屋からわざわざ神戸まで会いに来て下さるお客様もいらっしゃいます。

お客様から頂戴するお気持ちは、私の生涯の財産であると誇りに思っています。

そして日々ご指導くださっていた私の師匠や、諸先輩方の影響で、僕もコンクールに挑戦する!という大きな目標ができました。


コンクールへの関心の理由

メートルドセルヴィス杯優勝 深津茂人5

その後は、自分の地元でレストランをやりたいという夢を叶え、愛知県の田舎で小さなフランス料理店をシェフと2人で営業していたのですが、そのうちに「コンクールに出てみたい!」「自分の実力を世界基準で試してみたい!」という気持ちが沸々と湧いてきます。

毎日の営業もとても楽しいのですが、自分の成長具合や、日々の努力の成果を腕試しする事でより仕事へのやり甲斐を求めるようになっていました。

「この仕事で有名になりたい!」というシンプルな名声欲も大いにあったと素直に思います。


初めて挑んだ第15回メートル・ド・セルヴィス杯、幾度の挫折経験から得た大きなこと

深津茂人

予選で得意のチーズが出題された上、準決勝では留学経験を活かした外国語のオーダーテイクが評価され、なんと初出場ながらも、最年少で決勝に行ってしまいます。

初のアトリエ形式の採用と、決勝進出枠の増員が重なったことも大きな要因でした。

結果は惨敗。

決勝出場者16人中13位という結果に終わりました。今考えれば、料理やお酒に対する知識も全く足りず、外国語も勉強不足、決勝会場を想定した対策も何もできておらず、勢いだけで挑戦した結果が見事に表れたものと感じています。


ただ、得た物も多く、何より他の出場者の皆様とのコミュニケーションを築くことが出来たのが一番大きいと思います。

コンクールに出なければ出会えなかった仲間たちや、一緒に決勝を戦った方々とは今でも仲良くさせて頂いていますし、飲みに行ったり、お互いの情報交換をしたり、一緒に練習をしたり…。

この頃からお付き合いいただいている皆様の影響というのは、後の優勝に大きく関わっています

その後、職場を神戸に遷し、本格的にコンクールにも挑戦して行くのですが、最初の出場で運良く決勝まで行けてしまった事や、周囲からの期待もあり、油断や慢心があったのだと思います、続く16回大会、17回大会と無様な予選敗退を繰り返します。

なんで予選落ちなんだ?何がダメだったんだ?と、自身の努力不足を受け入れられない程気持ちが落ちていました

しかしきっかけを与えてくれたのは17回大会の時でした。

近所という事もあり、特に仲良くさせて頂いていた関西の後輩が決勝で入賞をしました。

当時予選落ちをして、ボランティアとして決勝大会の運営のお手伝いをしていた私は、観覧席から表彰台を眺め、輝くトロフィーを片手に喝采を受ける彼の姿を見上げ、「心の底から悔しい!」という強い感情を覚えました。

大きな転機であったと思います。


第18回メートル・ド・セルヴィス杯、優勝して思うこと

メートルドセルヴィス杯優勝 深津茂人2

そして迎えた2年後の18回大会。
予選から全ての力を出し切って臨みました。

職場の皆さんにご協力を仰ぎ、しっかりと時間を作り、徹底的に試行錯誤を繰り返し、筆記試験・論文・レシピ作成の課題をこなしました

準決勝では仕事の後に営業後のレストランを使用し、本番同様の状況を作り、納得のいくまで練習しました。

決勝に向けては、過去に決勝進出した方に細かく話を聞いて、当日を想定した練習を幾重にも重ねました


結果は優勝


後から見れば予選も準決勝も1位で通過していました。

コンクールというものが、努力を積み重ねれば、結果はしっかりと反映されるものだと確信しました。

日常の営業とコンクールを別物として捉える方も多いですが、私は同じものだと思っています

ゲストがお客様か審査員かの違いだけであって、ゲストの事を考えて、事前に勉強し、練習する

足りなければ点数(評価・売上)は低く、認められれば高くなる。

求められることを先読みし、事前準備を怠らず、想定し得る要求に応えられるように万全を期す

コンクールで出来ない人は営業でも出来ないし、営業で出来る人はコンクールでも良い結果を残せます。

よく若い方々をコンクールに誘うと、「私なんかまだ出場する程ではないですし…。」と消極的なコメントをされます。

コンクールに出場する事に若すぎる、早すぎるという事は決してありません

私自身、なぜもっと早くからコンクールに出場して、経験を積まなかったのかと今でも後悔しています。

出場や講習会をきっかけに、触れたことの無い食材や技術に触れたり、開いたことの無い文献を開くことがたくさんあります。

古典料理の伝統的なサービス技法などは、インターネットではとても得ることの出来ない貴重な知識です。

自分のサービスの引き出しをここまで広げてくれる経験はなかなかありません

そしてなにより、出場することでしか出会えない仲間がたくさんいます。

同じ目標に向かって共に進める貴重な仲間とライバルを得られる大切な場面でもあります。


大きな大きなガッツポーズ

メートルドセルヴィス杯優勝 深津茂人4

私は優勝した時、大きな大きなガッツポーズをしました。
心の底から湧きあがった、素直なガッツポーズでした。

あの時の光景と喜びは、言葉には言い表せられませんが、今でも鮮明に記憶に焼き付いています


次にあの感動を味わうのはあなたです

コンクールでお待ちしています。

ホテル ラ・スイート神戸ハーバーランド 深津茂人


深津茂人2

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