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東海道を歩く 番外編 ヤマトタケル

東海道を歩いて、ヤマトタケルノミコト(日本武尊)ゆかりの地が多く、
興味が沸いてきました
まずはこの旅で出会ったヤマトタケル伝承の地から
扉絵は「近江の国一之宮 建部神社」にて撮影

静岡市清水区草薙 草薙神社

東海道を歩く9 興津~江尻~府中~丸子 220903
8:38 昔の東海道より草薙神社への参道 草薙神社は、ヤマトタケルをご祭神とする神社
伝承によれば、ヤマトタケルの東征の際に、賊が野に火を放ち焼き殺そうとしたが、
ヤマトタケルは「天叢雲剣」で草を薙ぎ払い向い火を放って難を逃れた。
そのため天叢雲剣を「草薙剣」と称するという
焼けた個所は「焼津」という説もある
静岡市 清水区草薙 草薙神社
社伝では、景行天皇53年に天皇が日本武尊ゆかりの地を巡幸した際、9月20日に天皇が当地に着き日本武尊の霊を奉斎したのが創建という。また、天皇は当社に神体として草薙剣を奉納したが、
この草薙剣が朱鳥元年(686年)に天武天皇の勅命により熱田神宮に移されたとも伝えている(From Wiki)
鳥居をくぐるとすぐに日本武尊像が迎えてくれる
すごい快晴で本殿にはほどよくフレアが入りました 神々しくって良い感じ◎
静岡市の草薙球場などが近くにある

名古屋市 熱田神宮

東海道を歩く17 豊明~鳴海~有松~宮(熱田)221203
13:57 熱田神宮 宮宿は熱田神宮の門前町 東海道で最も大きな宿場の一つであった
熱田神宮は、境内・境外合わせて9万坪、三種の神器の一つ草薙の御剣をご神体にする大宮である その昔、ヤマトタケルノミコトが東征の折りに携行していた草薙の御剣だそうです

草薙の御剣

草薙の剣は三種の神器の一つ 日本神話においてスサノオが出雲の国でヤマタノオロチを退治した時に、大蛇の体内から見つかった神剣である
天孫降臨に際し、しばらくは宮中にあったが、畏れ多いということで、形代(カタシロ)が作られ、形代を宮中に残し、本来の剣は伊勢神宮に移されたという
ヤマトタケルの東征の際、伊勢神宮のヤマトヒメノミコトは草薙の剣(天叢雲の剣)を授けた
その後、ヤマトタケルは相武国、または駿河国で敵の放った野火に囲まれ窮地に陥るが、剣で草を薙ぎ払い、難を逃れた。これにより難を逃れたためその剣を「草薙の剣」という(静岡・草薙神社もお参りしました)
東征を終え、ヤマトタケルは尾張国で結婚したミヤズヒメの元に剣を預けたまま、伊吹山の悪神(荒神)を退治しに行ったが、毒にあたり、三重県の鈴鹿山中で亡くなったという。ヒメの元の草薙の剣を呼んで亡くなったという。
その後、ミヤズヒメはヤマトタケルと草薙剣を祀り、これが後の熱田神宮になったという

宮中に残った剣は形代であったが、源平の合戦の際、安徳天皇と共に海中に沈む 朝廷と源氏軍は捜索・加持祈祷を行ったが、結局見つからず、伊勢神宮より献上された剣を「草薙の剣(形代)」とした(ウィキペディアより)

東国を平定し尾張の国に戻ってくると、今度は伊吹の山に悪い神がいると聞きつけた
ヤマトタケルノミコトは、神剣:草薙の剣をミヤズヒメに預けて征伐に向かいました。
伊吹山を登る途中、牛ほどの大きな白い猪に出会い
「これは山の神の使いだな!帰り道で相手になってやろう」
と大きな声で威嚇してやり過ごしました。
すると突然激しく雹(ひょう)が振り出し行く手をはばまれます。
実は白い猪は山の神の使いではなく、山の神だったのです。
怒りを買い雹(ひょう)に打たれて衰弱したミコトは、
やっとの思いで山を脱出し、故郷のヤマトの国を目指します。
(建部大社パネルより)

四日市市 杖衝坂

東海道を歩く 19 桑名~四日市~石薬師~庄野
15:09 采女一里塚跡手前で国道1号線と合流 日永方面を振り返る
ここまでの旧道は杖衝坂と呼ばれる急登であった
杖衝坂はヤマトタケルノミコトが東国を平定し帰路についた際、
弱った体で剣を杖代わりに衝いて上ったという伝説の場所。
そのとき「吾が足三重の勾なして、いたく疲れたり」と呟いたことが、
三重県の地名の由来とされる。
杖衝坂の上にはミコトが出血した足を洗ったという血塚社もある。
杖衝坂
血塚社

亀山市 井戸川駅付近

東海道を歩く 20 庄野~亀山~関~坂下 221231
9:43 井戸川駅前のヤマトタケル(日本武尊)の像
東征を終え、ヤマトタケルは尾張国で結婚したミヤズヒメの元に剣を預けたまま、
伊吹山の悪神(荒神)を退治しに行ったが、毒にあたり、弱った体で大和を目指していたが、
三重県の鈴鹿山中で亡くなったという。
ヒメの元の草薙の剣を呼んで亡くなったという(17.豊明~宮 熱田神宮編)
能煩野(のぼの)(三重県亀山市)に到った倭建命は
「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」から、
「乙女の床のべに 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」
に至る4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。時に30歳であった。
大和から訪れた后たちや御子たちにより、東海道からほど近い能煩野(のぼの)に陵墓が作られたという。その後、タケルは白鳥になって、大和をめざして飛んでいったという。
明治になって、能煩野神社がつくられたという(神社の近くに前方後円墳あり)
ヤマトタケルの伝説を追いかけての道行きだ
ヤマトタケルと白鳥伝説
大和の国を目指し歩き続けたヤマトタケルノミコトは
「足が三重(ミエ)に曲がり固い餅のようだ」と嘆いた事から、
その地を三重(みえ)といわれるようになりました。
さらに体調を悪くしたミコトは国しのびの歌を詠みます。
「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる倭しうるはし」と詠み、
伊勢の能煩野(のぼの)(三重県鈴鹿市)でついに力尽き息を引き取ります…… 
妻や子たちが駆け付けると、ミコトの魂は白鳥となり能煩野から河内の志紀(大阪羽曳野)へと
飛び立ちました。今も白鳥伝説として語り継がれています
(建部大社パネルより)

白鳥と化したヤマトタケルが最後に降り立った地に建てられたとされる
大鳥大社(大阪府堺市西区)の主祭神として祀られる。どちらもその国の一宮とされる。
なお、大鳥神社(鷲神社)は各地にあり、大鳥大社はその本社とされる。
ヤマトタケルのお墓とされる 日本武尊御墓(やまとたけるのみこと おんぼ)
井戸川駅より徒歩30分程の能褒野(のぼの)墓
ヤマトタケルノミコトが東征の帰路、伊勢国能褒野で亡くなられたという記紀の記述に基づき、全長90m、後円部の径54m、同高さ9mと三重北部最大の前方後円墳が、明治12年に内務省により「日本武尊御墓」と定められ、現在も宮内庁により管理されています。
周辺には能褒野神社や、歴史・自然の特性を活かしたのぼのの森公園があります。
緑深い古墳を包む静かな雰囲気に、古代のロマンを感じることのできる空間です。
(亀山市観光協会HPより)
うっそうとした木々に囲まれる能褒野(のぼの)神社
明治12年に現在の「能褒野王塚古墳」が明治政府内務省によって日本武尊の「能褒野墓」と
定められたことに伴い、地元の有志により日本武尊の遺徳を偲ぶため創建された神社。
主祭神は日本武尊であり、妃の弟橘姫命(オトタチバナヒメノミコト)、
息子の建貝児王(タケカイノミコ)が祭られる。
また、境内には日本武尊と弟橘姫命の深い絆を表す「連理の榊」の榊がある。
この榊は雄株と雌株の木が地上3mくらいの所で横に伸びた一本の枝で繋がっており
二人の深い愛情を思い起こさせる。(亀山市観光協会HPより)

近江の国一之宮 建部神社

東海道を歩く 22 三雲~石部~草津~石山 230325
近江国一之宮 建部大社 ヤマトタケルを祀る 今回の旅ではヤマトタケルの伝承地が多い
父景行天皇の46年草創、天智天皇白鳳4年(675年)に当地(瀬田)に遷座
源頼朝が平治の乱に敗れて伊豆国に流される道中、本社に立ち寄って源氏の再興を祈願、
後に大願成就したことから、出世開運の神としても著名となった。
向って左が ヤマトタケルノミコト 右が大己貴命を祀っている本殿
建部大社説明板 建部大社とヤマトタケルの千円札があったんだ!
さすがに知らないけど…w
(建部大社パネルより)
三本杉と拝殿
孝徳天皇の御代天平勝宝7年(755年)大己貴命を権殿へと奉祀された際、
一夜にして成長したと伝わる御神木の三本杉。 日本武尊・大己貴命、こ
の二柱の神様をもって、近江国一之宮と定められました
文永七年庚午と彫があり、県内最古の石灯籠です。現在重要文化財に指定されています。
蒙古来襲で騒然となった時代、国家安泰を祈願し建立された石灯籠だと伝わります。

弟橘比売の伝説

更に東へ進んだヤマトタケルノミコトは、次に相模の国から舟で回路を進み、上総の国へ渡ろうとしました。しかし、海が荒れ舟をっ住めることができずにいると、同行していたオトタチバナヒメが、「私が海に入って海の神を鎮めましょう」と言って自ら荒波に身を投じたのです。
すると、たちまち荒れ狂っっていた海は静まり、無事に対岸に着くことができました。
(建部大社パネルより)

オトタチバナヒメの伝説は相模の国から上総の国~下総の国~関東北部に伝わります
入水したと伝わる横須賀・走水神社。ヤマトタケルが無事上陸できた木更津。ヒメが持って入水したという櫛が流れ着いたという茂原・橘樹神社。
ヒメの着物の袖が流れ着いたという伝説から名付けられた地名だといわれる。右と左の袖のうち、片方が袖ケ浦市に、もう一方が習志野市・袖ヶ浦に流れ着いたともされる。
また、群馬・吾妻郡の由来として 日本武尊が碓日阪(今の鳥居峠)にお立ちになって、なき妻弟橘姫を追慕のあまり「あづまはや」と3度嘆いたと言われている
そしてこの吾妻が「東(あずま)」の由来となっている

吾嬬神社 東京都墨田区

下町にひっそりたたずむ吾嬬神社  右は奥の院 墨田区登録文化財 狛犬の説明板あり
この狛犬(安永2(1773)年5月銘)は比較的小型の一対ですが、世話人10名と奉納者22名もの名前が刻まれています。そのほとんどが築地小田原町(中央区築地6・7丁目)や本舟町汚地引河岸(中央区日本橋本町)など日本橋の承認であることから、海運・漁業関係者とのつながりをよく表しているといってよいでしょう。このことは吾嬬神社(江戸時代には吾妻権現社)の由来に
起因しています。
日本の神話にヤマトタケルノ命が、現在の東京湾を舟で渡っているときに海神の怒りに触れ、
往生していた時に妻の弟橘媛が海に身を投げて、海神の怒りを鎮めたという話があります。
このヒメの品が流れついたところがこの地だったということです。
以来、海や川で働く人々の守護神として信仰されてきたわけです。
また、昔は地盤沈下していなかったため、この社の裏の「吾嬬の森」(または「浮州の森」)と呼ばれた森が小山のように広がり、海上からの好目標だったことも崇敬を集めた理由の一つでしょう。(古代の古墳ではないかという説もあります。)
「縁起」の碑によりますと、昔、日本武尊が東征の折、相模国から上総国へ渡ろうとして
海上に出た時、にわかに暴風が起こり、乗船も危うくなったのを弟橘媛命が海神の心を
鎮めるために海中に身を投じると、海上が穏やかになって船は無事を得、
尊は上陸されて「吾妻恋し」と悲しんだという。 のち、命の御召物がこの地の磯辺に
漂い着いたので、これを築山に納めて吾嬬大権現として崇めたのが始まりだと言われています。
年を経て、正治元年(1199)に北条泰時が幕下の葛西領主遠山丹波守に命じて、
神領として300貫を寄進し社殿を造営しています。
さらに、嘉元元年(1303)に鎌倉から真言宗の宝蓮寺を移して別当寺としています。
これらによっても、当社の創建は相当古いものと考えられます。
「神樟」 連理の樟(くすのき)は日本武尊が使った箸を地に刺したところ、
1つの根から2つの幹を持つ樟が育ったと伝わる。
現在は枯れ、根と幹の一部が残されている。
江戸名所図会より「 鳥がなくあづまの森を見わたせば月は入り江の波ぞしらめる」 藤原恭光人道 この和歌は戸田茂睡入道のあらはせる『鳥の跡』 といへる和歌の集に載せたりし、みづからの詠なり。そのはしに「この吾妻の森は東人(あづまびと)といへるが住みしところなり」とあり。 この東人いかなる人にや、いまだ考へず。
浅草観音~柳嶋妙見堂~亀戸臥竜梅~吾嬬の森は江戸の人達の娯楽スポットであったらしい
梅見をしながら吾嬬の森まで。また、吾嬬権現は「かんの虫封じ」もやっていたらしい

ランドマーク探しⅢ こちらのブログを参考にさせていただきました

ヤマトタケルノミコト

ヤマトタケルノミコト(日本武尊)は東西を平定したことから、
武力に優れ、偉大な戦士として戦い抜き、人間的な愛や苦悩に彩られた生涯を歩んだ日本神話の英雄です
神 格 武神 農業神
ご利益 国土平穏 五穀豊穣 商売繁昌 出世開運 招福除災 交通安全  
    試験合格 勝負運 仕事運向上

オトタチバナヒメ(吾妻大明神(あずまだいみょうじん))

夫への愛を貫き、夫の使命達成のために自分の命を海の神に捧げた女神です。
神 格 海神を祀る巫女
ご利益 海上安全 商売繁盛 縁結び 出世開運


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